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<序>
江戸時代末期、横浜開港により、日本は新しい時代を迎えた。鎖国もキリスト教の禁止令も解かれた時、福音の芽は再び萌え出て育まれ、外国から宣教されるだけでなく、邦人が宣教師として海外へ派遣されて行くまでに成長した。
手元にある東洋宣教会ホーリネス教会第一年会記録によると、大正七年(1918年)監督直轄地として(光州、撫順、奉天)の三つが記載されているのみであるが、大正十四年に開かれた東洋宣教会ホーリネス教会第七年会記録には巡回地として「朝満部」「支那上海」「南米ブラジル」「米国加州部」11箇所が記録されている。日本プロテスタント宣教150年のこの年、この日本のキリスト教海外宣教をも忘れてはならないと思う。
ここでは、日本のキリスト教海外宣教の歴史について、父、小池章三が派遣された花蓮港聖教会の歴史を描きたいと思う。台湾花蓮港聖教会の牧師として1935年(昭和10年)〜1946年(昭和21年)まで約10年間、海外での宣教を行ったのである。台湾花蓮港聖教会は日本人、台湾人、蕃人とさまざまな人々が出席していた。当時の写真を見ると、信仰による平和を見ることができる。父にとって「台湾(フォルモサ)伝道の時代」「花蓮港聖教会の思い出」は生涯の宝であった。
2000年8月、谷口和男牧師は基督教台湾聖教会東部教区退修会の講師として招かれた。その折に1931年〜1981年までの「創立50周年紀念」誌をいただいた。その中には父の友人や恩師計5名の写真も載っていた、が父の写真はなかった。東台湾は台風による洪水がひんぱんに起こる風土上の問題もあり、戦前の記録がほとんど残っていないとお聞きしている。まさにその「創立記念50周年紀念」誌も戦前を示す資料は本当にわずかなものであった。
「記録」が残されなければ、時代の波に押し流されて、何もなかったように消えてしまう現実を見た。
戦後64年を経、当時活躍された方々の多くは召された。私はプロテスタント宣教150周年によせて、父の残した手記と写真、また母の記憶を資料として花蓮港聖教会の歴史を書き記すことにした。
花蓮港聖教会は昭和18年、治安維持法に基づく弾圧を受けた。教会は宗教結社禁止令により解散させられ宗教活動は停止に追い込まれたが、昭和21年県庁の依頼により「日僑管理委員会事務所」となった。その故に、本来ならば日本に持ち帰ることが許されなかった写真などを持ち帰ることが許された。これらを資料として用いたい。
主と共に生き、また宣教師として海外へ派遣されたた諸先輩と、内地・外地に於いて殉教の死を遂げられた方々に敬愛の念をこめて、また弾圧の中でも私の両親に温かいを手を差し伸べて下さった全ての方々に感謝を込めて、日本統治下の台湾の歴史を、花蓮港聖教会の歴史という視点から、とある宣教師の思い出ばなしの形をとって描きたいと思う。
尚、現在では「不適切な表現」とされるものが多々あるが、74年前の当時を知るために、父の手記に残された表現をそのまま用いることをお許しいただきたい。また、手記の中には固有名詞の表記間違いや、表記ゆれもあるが、あわせてお許しいただきたい。
―2009年 97歳の母と共にイースターを祝って。―
谷口恵
EVANGELISTS FROM JAPAN
After the end of Edo-jidai Era , many evangelists came Japan.
This made many christians in Japan and made japanese evangelists.
Some of them were sent to Korea , China , Taiwan , Brazil ,US and Canada as evangelist.
Also my father Koike Shozo were sent to Taiwan Karenko-seikyokai Chruch
as evangelist .
This church was oppressed by Shukyokesshakinsirei-Reguration(宗教結社禁止令)
based on Chianijiho-Law(治安維持法).
After the World War 2 ,this church was sellected office to return Japanese to Japan(日僑管理委員会事務所).
This allowed my father to bring pictures of Taiwan in Japan.
My father dead in october-2000.
Now I wirte this article based on my fathers note "Dear Megumi. This is very Important thing".
in Easter 2009, with my mother. Taniguchi Megumi.
1.
東洋宣教会ホーリネス教会
後に花蓮港聖教会牧師となる父は1907年(明治40年)1月4日、長野県に生まれた。2000年10月2日、65年に渡る伝道の生涯を終えた。信仰の年数は75年にわたり大正、昭和のキリスト教の歴史と深く関わっているので年表の形で足跡をたどってみることにする。
1917年(大正 6年)東洋宣教会ホーリネス教会が組織される。
1918年(大正 7年)ホーリネス教会第一回年会が開かれる。
1924年(大正13年)上諏訪ホーリネス教会に於いて求道生活を始める。
私は1924年(17歳)、7月6日の晩、上諏訪ホーリネス教会の伝道会に「一度キリスト教のお話しを聞いてみたい」と思い、出席いたしました。高橋俊三先生は聖書の上に手を置かれ確信に溢れたお声で「この聖書のお話を信じるか、信じないかその結果を見ることができるでしょう。」と語られました。
心の中で「50年、60年は長いなぁ」と自問自答しながら「信じてみよう」と思った者が求道者に替えられて帰宅いたしました。
伝道会で青年の男女、老人の方々の入信当時の悔い改めのお話しをお聞きしたことは幸いでありました。(写真 1、2)
1925年(大正14年) 2月22日 車田秋次先生が講師として迎えられた集会で「恵みの座」に進み出て悔い改め 4月20日 郊外の六斗川に於て高橋俊三先生より洗礼を受ける。
1926年(昭和2年) 5月24日 御牧硯太郎先生を講師としての特別集会の「恵みの座」において「ヨハネ21章15〜17節の御言葉を通して」召命を受ける。
1932年3月 高橋俊三先生の推薦状をいただき柏木聖書学院に入学する。(上諏訪ホーリネス教会の、戦前最後の献身者となった。)
―リバイバルの末期でありましたが大講堂(カウマンホール)における祈祷。当時2000人収容の木造建築は警視庁下では一つと云われておりました。―
火曜日の晩は、「きよめ」の勉強。先輩が交代して自分の経験を引用して教導下さいました。この学びも最高でありました。
私はこの勉強の時、先輩の指導によって明確に確信を得たことは生涯の宝でありました。―
1932年5月 「きよめの恵」を受ける。
―更に中田監督が授業の時、「兄弟達よやがて地方へ任命されるが祈ることを怠ってはならない。メソジスト教会の赤沢監督は夜分講壇の陰に座り祈祷を続けていく時に、『三尺前に主の臨在を感じた。』と語られたことがありました。兄弟達よ、祈る事を怠ってはならない、祈りなさい」と教えてくださいました。
注釈:当時リバイバルの霊火は燃え続き、消灯後のカウマンホールは静寂の中にも祈祷の呻き声に満ちていた。ホーム(寮)の烈しく燃える祈祷の時間に指導者によってリバイバルの中、本や衣類を「ワラ屑」として焼くことを余儀なくされた。
【「小池君、そのオーバーも焼いてしまえ」と言われ、「これはもったいないから焼かないよ」と実家へ送り返したことでありました。】
この作為的行為を「リバイバルが起った」と報告されていくことに恐れを感じたと手記に書いている。
12月24日 病気のため休学。実家に帰る。
(写真 4)
1933年(昭和8年)5月 健康が回復し、上諏訪ホーリネス教会の斎藤保太郎先生より、高遠町の開拓伝道を命ぜられ、派遣された。中田監督にハガキでお知らせすると、中田監督より「必要な物があるならば何なりと言うてよこしなさい。」とおハガキを頂いた。
(弾圧の時、台湾花蓮港聖教会に於て、書類と一緒に押収されてしまいました。)
聖書学院に入学した当時、おなかがすき、パンを買い求めて同室の先輩、
「矢部君あなたも食べないか」とすすめました。彼は
「小池君、尾崎さん(副舎監)に聞いたか」
「いいえ」
「それなら尾崎さんに聞いて許しを得てから食べなさい」
と教えられ、その部屋を訪れました。
「小池君、僕達は将来信者の献金によって生活するのだから、食べたいからと言ってすぐ買って食べることをせず、祈って待ちましょう。今日は食べてもよろしい。それから地方へ任命された時、説教の準備に行きづまりを感じた時、祈りなさい。祈っても仲々苦しい時があるが、更に祈りなさい。必ず主は示して下さるから。」
とつけ加えて教えられました。
高遠町の開拓は信者がありません。毎朝一時間は声を出して祈りました。祈りが終わって玄関へ出ますと上り台の上に白い紙袋がおいてありました。何を下さったのか、何が入っているのかと開いてみると、ぶっち切りのような白いお菓子(アルヘイ糖)が入っておりました。
一週間続きました。「どうした方かなあ」と思っておりますと、お隣のお豆腐屋さんのお婆さんが、5〜6歳のお孫さん、照子さんを使って届けて下さることが分かり、尾崎副舎監の言葉を思い起し、感謝を捧げました。
名物の「高遠まんじゅう」は尾崎先生の言葉を守り、遂に買い求めることをせず高遠を去りました。(山梨県に赴任してから、高遠を去って40年後、当時入信した武井富佐子さんに「高遠まんじゅうを食べることはなかった」と手紙を書きました時、2000円のまんじゅうが送られてきました。)
お菓子を届けて下さったお婆さんはその年のクリスマスに数名の方々と共に入信。栗田三次牧師より洗礼を受けられました。感謝なことです。松本教会へ移ってからも高遠教会へ自転車で通いました。
1933年(昭和8年) 10月 松本教会の松田先生より、「忙しいから手伝ってくれないか」と招聘されました。
―・教理上に相異が生じ中田監督と分離することになる。
その結果斎藤保太郎先生とお別れすることになり、
「小池君、君はそっちに行くのか。残念だなあ」
と言われました。先生は弾圧の時水戸の拘置所で殉教されました。
1934年(昭和9年) 7月13日 松田正平先生の司式、石川安一先生の仲人により藤森なを江と結婚する。
1935年(昭和10年) 3月 健康が回復し、東京聖書学院に入学。柏木寮に入る。(単身)
米田豊先生が
「大丈夫か」
とお声をかけて下さった。 (6月21日 長女生まれる。)
8月 岡山教会の夏期伝道に派遣される。
自炊しながら毎日家庭訪問、夜分は路傍伝道。旭川の夕凪と云われるむし暑さ。タンバリンを叩いての路傍伝道は物珍しげの会衆であった。「僕も信じたい」と前に進み出た青年であったが、あまりの嬉しさに住所の記述を忘れ残念な事であった。洗濯屋さんの○兄と四十年後、甲府のギデオンの総会に招かれた席上で、全国の会長としてお逢いしたことは大きな喜びでありました。
9月10日 帰京。車田委員長宅に報告に参上する。
車田委員長は報告を聞き終わりますと「中央委員会は兄弟を水戸の在、瓜連教会へ任命しました。明日の礼拝に遅れぬよう新大久保駅から荷物を出し出発しなさい。」との辞令でありました。(単身赴任)(写真 瓜連教会5)
9月11日着任。
瓜連教会は水戸より福島県郡山に通ずる水郡線水戸から五里位でありました。
夜分になりますと一軒おいて隣の飲食店から「落ちぶれて袖に涙がかかると時、人の心の奥ぞ知らるる」と云う当時流行の歌が聞こえてきました。説教の準備に妨げになります故、暗い小道を歩きながら準備をいたしました。
家庭持ちを配慮下されたことでしょう。思いがけない援助金5円と出版部より未納の請求書が同封され、15円の負債のあることを知りました。
「教会が未納金があることは証しにならない」
と単純の思いから、前任者の御夫人に相談せず、出版部に送金、完済できましたことは感謝でありました。
このささやかな思いやりが小原先生のお心の中印刻され花蓮港教会の財政困難な教会に抜擢されたのではないでしょうか。この事は2、3年前に気づいたことであります。
10月―――1か月が経過しました時、本部より
「用事がある故、青山の青年会館に出頭するように」
との通知があり、当日定刻出頭いたしますと、すでに先輩数名が待機しておられ、次々室内に呼び込まれ、最後の一人となりました。
柏木寮の寮長であり中央委員の一人である一宮政吉先生がおられ、席につきますと
「小池さん。花蓮港の教会へ行かれますか」
とお尋ねになりました。
「私共は自分で任地を選ぶ資格はありません。
行けと仰せになれば行きます。」とお返事をいたしますと
「もし行くようになったならば古賀さんと云う家庭を訪問して祈ってあげなさい」と言葉が添えられました。
12月13日 「花蓮港教会に転任を命ず。上京の時には淀橋教会の事務所により旅費を受け取り、12月26日神戸港出港の大洋丸に乗船しなさい。」と一枚のハガキの辞令でありました。
(<本家への挨拶:回想>)
TOYOSENKYOKAI HOLINESS KYOKAI CHURCH
Toyosenkyokai Holiness Kyokai Church was establised in 1917.
Koike Shozo was born in 1907.
He went Kamisuwa Holiness Kyokai Church in 1924.
From the Note >>
Mr.Takahasi Shunzo told in his predict that "You will see the difference
between believing and no-believing in 50 years".
But I think "it's roo long".
He admitted to Kasiwagi Seisyo Gakuin School of Theology(March 1932) and
He had an experience of holiness(May 1932).
He admitted to Tokyo Seisyo Gakuin School of Theology(March 1935)
In 11-September-1935 He was send to Urizura Kyokai Church,
and
this year 13-December ,
he get a postcard from Office of Holiness Church.
From the Note >>
Go Taiwan Karenko Kyokai Church.
Come Yodobashi Kyokai Church and get tickets.
Board Taiyomaru-ship from Kobe port 26-december.
もくじ
2.
台湾伝道
12月26日、気候の事、教会の事情等々一切知らされておらず、親子3人未熟な伝道者の旅立ち。船に弱い私はその晩から船室で、ボーイさんから借りたお風呂の樋のような小形な吐き樋と仲良し。
27日朝。 門司港で荷物の積み入れ。
28日朝。 船上にて。
吐いている最中、水上警察より甲板の部屋に呼び出し。手に持っているハンカチを眺め、
「それは何だ」
「今吐いておりましたのでハンカチを持って来ました。また洗って用います。」
「どこへ行くか。(昨晩と同じ質問)」
「花蓮港へ参ります。」
「何に行くのか。(昨晩と同じ)」
「キリスト教の伝道に参ります。」
「帰ってよろしい。」
お部屋に帰りました。
この質問は私にとりまして講壇からの言葉(説教)に注意することを決意させました。赴任してからも台北から台中方面の旅行(中央鉄道)に尾行がつくようになりました。
12月29日の朝、基隆港に上陸しました。
待合室には台湾部長大沢豊助先生が待っておって下さいました。初対面のあいさつを交わしました。先生は台北の教会へ案内せず、戦後は蒋芥石総統の居住地となりました草山の温泉街の旅館に案内下さり、一泊させて下さいました。長旅の疲れをとるための温かいお心づかいに感謝にあふれました。
夕食後「小池さん。小原さん(本部の財務部長、淀橋教会牧師)から何か聞きましたか。」
「いいえ、何もお聞きいたしません。」
「実は花蓮港教会は財政困難な教会で、役員会より『40円の援助がなければ後任はいらない』と断りの手紙が送られ、小原さんからは『援助がなくてもやっていかれる者を送る』と返事が来ており、あなたは選ばれたのだからしっかりやりなさい。」と励まして下さいました。
12月31日。朝、台北で見送られ汽車で3時間、蘇澳駅で下車。
バスの待ち合わせは1時間。バスに乗車の時に紙袋を渡された。しばらく行くとガイドさんが「向こう側にみえる小さな池は蕃人が首を洗った池で、『首洗いの池』といわれています。」と聞かされました。
左は断崖。台風の時は100m上の道路まで太平洋の海水が届くとのこと(絵ハガキ)。大理石の断崖をえぐり抜き、太平洋側に窓を設けました。現在でも世界の名所云われておるそうですが、バスに乗った人々は乗車の時に渡された紙袋に吐いた物を入れるという困難な道路でありました。
右側の山手は蕃人の焼畑の跡が残り、「えらい所へ来たものだなあ」と思う内に5時間のバス乗車も夕闇の迫る花蓮港駅前の東海バス停に下車しました(絵ハガキ)。
合計九時間の長旅は「台北部長宅を訪れ、祈り会をし、日帰りする」ことのできない遠距離でありました。
出迎えて下された諸兄姉のお姿も見分けのつかない夕闇。九時間の長旅でありました。教会会計の小林喜美雄さん(台湾総督府専売局花蓮港支局長)、に教会に案内されました。すぐに「東京庵」より年越しのそばを届けて下さいました。
日本人が開拓したといわれる花蓮港街は日本人が4000人居住しており、台湾全島でもこの数の日本人が居住しておるのは花蓮港だけであった。建築も瓦葺(日本人住宅)が多く、旅行者は「日本へ来たような気持ちだ」などと言っておりましたが、教会はトタン葺でありました。
総督府の人々は「港のない花蓮港。陸の島流し」と言って花蓮港への転任を嫌がっておったとのこと。内地からお嫁さんを迎えても港が無く、本船からサンパ舟に乗り移る時、お嫁さんの足がすくみ、海に落ち溺れて亡くなられたことがあったなどお聞きしました。
私が着任して10年目に陸地を掘削して築港が完成されました。(これはイタリアに次いで世界で二つ目といわれております。)戦後、ここから引き揚げてきました。
EVANGELICAL MISSION IN TAIWAN
In 26-December , I was not told about Karenko's atmosphere and details of Karenko Kyokai.
I and my wife and my daughter got on "Taiyomaru" with my friend pee-bag.
In 27-December , This ship arrived at Monjikou port.
In 28-December Morning, I was asked questions by police.
"What is it?" He said with looking at my handkerchief.
"This is my handkarchief wiht my pee." I answerd.
"Where are you going to?" he asked.(This question was asked yesterday.)
"I go to Karenko." I answered.
"What is your purpose?" he aseked.
"For Evangelical mission." I answered.
"Go your room." he said.
This affair made me decide to take care of my words.
And We were tailed.
In 29-December morning we arrived at Kirunkou port.
On this port Mr.Oosawa Toyosuke pastor was waiting of my arrived.
And he invited us to Hotel of Kusatsu.
After dinner,he told me.
"Mr.Koike Mr.Koike Did you hear someting about Karenko from Mr Obara(pastor of Yodobasi Kyokai church and the tresury of Seikyokai Holiness Church)."
"No. I heard noting." I answered.
"Karenko kyokai church is very poor, and mebers of this church posted a mail to office and refuse any pastor without 40YEN financial aid.
So Mr Obara answer to Karenko church. We send a pastor without financial aid.
You are trusted. Do your best." he said.
In 31-December Morning ,we got on trains from Taipei and got off at Suo Station.It took 3 hours.
After one hour waiting ,we got on a bus.
CA told us that lake was told Taiwanese aborigine washed heads of human they killed.
Traffic was very bad.We were not able to sit down without pee-bag.
Marine side of this marine road is a precipice.
The other side of this road is falmland of Taiwanese aborigine.
5 hours riding brought us Karenko.
It took 9 hours to travel from Taipei to Karenko.
Mr. Kobayashi Kimio the tresury of Karenko Seikyokai
Holiness Church waited us.
台湾伝道は・1925年、東洋宣教会ホーリネス教会の中田重治監督によって台北巡回伝道をされたことに始まった。
水蓮眉蕃社には北村芳枝先生が任命され、花蓮港教会に大津先生。途中で事情があり退職されましたが先生の路傍伝道により県庁林務課長 塚本松喜・信子御夫妻が最初の入信者。荒原諸兄磨先生は二代目。山里忠男先生が三代目。山里先生は県庁より142坪2合5尺を借用する。渡嘉敷先生が四代目。私が五代目であります。
台東県、花蓮県では私がただ一人の日本人牧師でありました。「南埔講義所」(教会という名称は許可されませんでした。)は実質的にはポタル先生がアミ族の人々に伝道されておりました。しかし官庁の扱いは内地人小池牧師が責任者となっておりました。
In Taito Prefecture「台東県」 and in Karen Prefecture「花蓮県」,I was the only one Japanese pastor.
I was a pastor of "Karenko SeiKyokai Holiness Churuch "「花蓮港教会」and "Nampo Kogisho Lecture Center"「南埔講義所」officially.
But Mr Potal (the Ami people) was pastor of「南埔講義所」and he did evangelical mission for Ami people.
「南埔講義所」could not name "Nampo Kyokai church".
山里先生は台北市役所の社会課の責任者として是非来て欲しいとの要望により、移られたことでありました。本部から牧師の資格を返上するようにとの通達がありましたが、「牧師の資格があることは職場において相違があります故、お許し願いたい」と懇請いたしました。弾圧のありました時、山里先生の取り計らいにより、古清水万太郎先生の教会では保育園を催すことが許可されたことでありました。(写真 大沢先生と山里先生 10)
注釈:
昭和二年4月に開かれた東洋宣教会ホーリネス教会第九年会記録に、棟氏の挨拶が収録されている。
その挨拶では「二年前貴教会中田監督我台湾に巡回して大いに伝道せられ」となっている。
第八年会記録が手元にないため詳細は不明。大正十五年教勢報告に、台北、花蓮港、
二つの教会が記録されている。第七年会記録には台湾の記載はない。
東洋宣教会ホーリネス教会第九年会記録を掲載する
(
第九年会記録の表紙
、
棟氏の挨拶
、
大正十五年教勢報告
)
。
本来これらの資料は弾圧を受けた時に押収され残るはずはなかったが、
偶然にもゴミ箱に捨てられていたのを発見し、今日に至っている。
三代目の山里忠男先生の時、郊外の河川工事が施行され、総督府の技師、錦織氏の御夫人の特別献金によって、会堂が建築されたと書類が残っておりました。それまではあちこちと民家を借りての集会であった由。
当時、台北と花蓮港が教会堂がありましたが、嘉義、台南、台中も借家の教会でありました。(写真 外と内
11、
12、
13、
14、
15)
しかし、工事も終り、技師御夫妻が台北へ帰られ、出席者は少なく、山里先生も花蓮港から宜蘭へ去られ、集会も淋しくなった由。私の着任後も伝道会の一人。祈祷会も皆無という時もありました。
上諏訪ホーリネス教会の「組会」をならい、家庭集会があちこちで催されるように導き、外地のことでありますが交わりを深めることに励みました。
小林会計は一ヶ月分の俸給をささげ、水道をひいて下さいました。
文局長(日本では文部大臣級)の戸塚林平兄の奥さんは婦人会の折、台湾の漬物、料理を若い奥さん方に教え喜ばれたことでありました。
花蓮港着任は 12月31日でありました。
1936年(昭和11年)1月26日の役員会で「この教会は献金でつまずいた教会ですから講壇からは絶対に献金の奨励をしないでください。」と会計さんに言われ、「ハイ、分かりました。」と答えました。心の中には少しの不安もなく、祈る事によって主は与え給うと信じておりましたから全く平穏でありました。
「私から一つお願いがあります。祈祷会の献金は蓄えておき、経済的に困難な教会へ祈りを込めて送りたいと思いますからお許し下さい。これは私の信仰ですから」と了解を頂きました。
中田監督は「兄弟達よ、地方へ遣わされた時、祈ることを忘れてはならない」と教えて下さいました。その教えを花蓮港教会の役員会終了後から始めました。
転勤の多い植民地のこと。重要な役員は次々と異動していきました。塚本兄は私の着任後3月の異動で隣の鳳林郡の郡長として栄転されました。しかし、献金額は増加していきました。「そんなに捧げなくてよい」と皆の献金をおさえておった方が転勤した結果、「自由に献金することができるようになった」とみんなが申されておりました。
昭和16年。赴任して7年目。山里先生が県庁より借用しました教会の敷地142坪2合5尺を4000円で払い下げを受けましたが、信者の方々に無理に献金を求めることなく実践できました事は誠に感謝のことでありました。
聖教会全体200余の中で9位の献金額、教勢35位となり主の御名を崇めました。
花蓮港教会に出席されている日本人の方々は台湾総督府の林務課長、専売局会計課長、総務部長(栄転された時)、警察官、台湾日々新聞花蓮港支局長、医師、教師、駅長、助役 等々 さまざまな方々でありました。
牧師の交替を町内の人々に知らせ、馴染んでいただくために人通りの多い黒金通り郵便局前の三角形の空地を利用し、親子そろって路傍伝道を始めました。(写真 絵ハガキ 黒金通り 18)
私はタンバリンをたたき、家内は子供を背負いましたが、三人の子どもたちは成長と共に、堤灯持ちをしました。
東台湾に日本人の牧師は小池だけでありました。霊性の低下を注意して祈祷を怠りませんでした。150キロの鉄道沿線に散在する信者宅を訪問。共に祈りました。中田監督の教えに従い祈祷の生活は続けました。
教会は本通りから数分奥地の「連雀通り」にあり、三方はコロトンの生垣で囲まれ、その中には檳榔樹(びんろうじゅ)、パパイヤ、バナナが混じり、訪問者の出入口には玉砂利を敷きました。周囲は官庁関係者の宿舎が13軒、台湾人の家が1軒ある静かな環境でありました。
言葉はあるけれども文字を持たない山地の蕃人達に、駐在官はクセのない日本語を教えました。日本政府の施策による日本語の普及により内地人との対話が楽しそうでありました。
着任直後から台湾人や高山からの蕃人の野菜売り、平地におるアミ族の女性の野菜売り等は裏口から入りました。やがて信仰の話を希望する者は裏庭の井戸水ではだしの足の泥を洗い流し、下駄をはいて屋内に入りました。(写真
16、
17)
顔に入れ墨をしておる者、していない者も脚伴を付け、野菜売りに来訪し、内地人との交わりが楽しそうでありました。
ある時は家内と交代で聖書の話をいたしました。熱心に聞き、青年の中には聖画の紙しばいを借用して帰る者もありました。
(<紙しばいの思い出:回想><夏の花蓮港聖教会:回想>)
中田監督の教えにしたがい、祈祷の生活はつづけました。台東駅からバスで一時間半、太平洋側を奥地に進むと熱帯地の植物が幼いころ生活した北海道礼文島の海岸の植物と同様で驚きました。
通りがかった蕃人が裸で腰に蕃人用の刀をつけておりました。「ぺこん」と頭を下げましたが 私は大きな声で「こんにちは」と挨拶いたしました。この道路の奥に「成興うおう」という部落があり、小さな港に船が引き上げられており、新潟県出身の松矢新吉さんというお医者さんの話によると英国人の宣教師がこの港から上陸して伝道しておられ「オランダ人」が300年前に支配しておったとのこと。蕃人の中に目玉の青い者が今でもおります。
ポタル先生との交わりは1936年(昭和11年)1月から始まりました。先にも話しましたように「南埔講義所」は実質的にはポタル先生がアミ族の人々に伝道なされておりましたが、官庁は花蓮港聖教会の歴代の内地人牧師を責任者とすることで許可を与えておりました。日本語は流暢、官庁との関係はなめらかで、お子さんは公学校ではなく、私どもの長女と同じ小学校(日本人の子弟だけが通う。)に通っておりました。
1936年(昭和11年)。私は台中教会の特別集会の説教中、急性肋膜炎となり、痛みを耐え、責任を果たし台北教会の特別集会で御用(説教)をするために台北教会へ引き返し大沢豊助先生は「牧師は講壇の上で倒れるのが本望だ。御用をしなさい。」と励まされ、御用をすませ翌日帰宅したのが12月4日でありました。
ポタル先生の奥さんのお父さんが「水連眉の蕃社で亡くなられた」という連絡が18日、19日とあり、「内地人がいけば、キリスト教でお葬式が許されますから小池先生、行ってください。」と依頼され、痛みをかかえて出かけました。
寿駅まで乗車1時間。迎えがないので駅から徒歩。橋のない川を靴を脱いで渉り、峠を越えて太平洋を眺めることのできる部落、水連眉蕃社につきました。過ぐる年、この地の公学校に於いて、北村芳枝先生の伝道なされた当時を偲びました。
葬儀を終えてからの一泊も貴重な経験となりました。彼らはアンペラ(黒砂糖の袋)を広げてゴザとして、コワチ(親指ほどの竹に似た植物)をスダレに編んで、四角を引き張り、その上に敷いて休みます・日没はその上で安眠なさるのでしょう。布団は体がほてって休むことは困難でしょうが、慣れない私のために学校から借りてきたのでしょう、「薄い」布団を用意してくださいました。帰りはカゴを用意下され(横向きに腰掛けカゴ)、川の中もそのまま。寿駅まで何キロありましたか。よき思い出でありました。
(<台湾の日常生活:回想>)
1937年(昭和12年)2月。東京の本部より小原十三司先生が9月に台湾巡回使として東台湾に来られることになったとの連絡を受けた。小原先生は花蓮港教会で写真で一緒に写られたアミ族の首長(カツァー)と同じ50歳でありました。本部より連絡を受けて1ヶ月、連夜の祈祷会が行われ、先生をお待ちしたことでありました。
当時は飛行機はなく、基陸に上陸した晩、台北教会の信者、郊外の金爪石鉱山の社宅に於いて集会がもたれた。翌日は花蓮港教会 小林喜美雄兄の勤務される台湾総督府専売局花蓮港支局の講堂に於いて1時間の精神講話が行われ、12時発、台東行き終列車に乗車。
板張りの腰掛けに座って9時間を要し、翌朝台東駅に到着した。バス利用で1時間半の道のりを、当日はタクシーを利用し、台東県新港街の松矢新吉兄の診療所(ご婦人は助産婦)で家庭集会を行った。ご夫妻は地域の人々の信望の厚い方であった。
松矢兄宅の家庭集会をすませ、引き返して台東駅より玉里駅に下車した。花蓮港駅と台東駅の中間に玉里駅がある。
この「中間の町」に信者が与えられるように 駅の待合室の腰掛けの下に 蚊取線香をいぶし(マラリヤを防ぐため)、祈祷を続けたことがある。警察官が時折巡回したことでありました。
小原先生をお迎えしました時は玉里駅長 麓佃氏の御厚意により鉄道倶楽部に於いて、夜10時より集会が開始されました。麓佃氏の奥様は熱心な信者であり、親類の薬剤師の家庭も信仰に熱心な方々でありました。
小原先生は
「小池さん。今まで多くの集会で御用をしてきたが、夜中の10時から集会が始まって12時に終わるということは初めてだよ。」
と言われ、
「ハイ、よろしくお願いいたします。」
とお返事いたしました。
小さな特別集会でありましたが聖霊のお働きによって先生のお話しは祝され、10年近く喘息を患っていた駐在官の奥さん、吉川百枝さんは 先生の按手により、たちまちいやされ、栄光を拝したことでありました。
窓に目張りをし、紙帳を吊るしてその中で生活するのでなくては、わずかな空気の流れにも耐えられない程の喘息が信仰によっていやされた喜びはご主人をはじめ教会の方々にも同様でありました。
「聖霊のお働きを見たので、新しい聖歌を作ってほしい」と鈴子先生にお葉書を送られました。「新たなる聖業」は小原鈴子先生の作詞、高野忠博先生の作曲で誕生いたしました。(写真 19)
花蓮港教会の礼拝の講壇から「教勢の貧困は信仰の貧困によるものであった。援助を送らなかったが、よくやった。」とおほめの言葉をいただきました。
小原先生巡回伝道のこの時、「薄々(ポッポコ)講義所」の柿の木の下のフロ桶に於いて隶朱塗(難読文字 37、38)兄が受洗いたしました。
林異雷牧師は花蓮港教会の出身者で日本人の婦人と結婚し、日本の神学校で学ばれました。(写真 28)
日本で弾圧が起こった時、先生は用心深く1ヶ月かけて台湾に戻り、このことを知らせてくださいました。戦後しばらく山梨県でも伝道されました。のちに1963年〜1967年に「東台聖経学校」の校長となられました。先生の教え子にあたる牧師先生ご夫妻と、今日親交が与えられており、主の深い摂理を思います。
(<林異雷牧師先生との思い出:回想>)
台東県新港街の公医、松矢新吉兄と奥様は地域の人々にも信望の厚い方々でありました。
松矢ご夫妻とお交わりが始まって(月一回の巡回)、「きよめの恵」について教えて欲しいと求められ、三ヶ月目に明確な確信が得られました。
花蓮港から150キロの道のり。9時間列車と1時間半のバス乗車。お交わりが始まって3年3ヶ月目の訪問の折、
「小池先生。三年間先生を見てきましたが先生は廉潔な方ですね。もし先生個人でお入り用の場合は私の財の許す限り協力させていただきますから遠慮なくお話しください。」
と親切な言葉をいただき感謝いたしました。
中田監督は「地方に遣わされた時、金銭の問題、女性の問題に気をつけなさい。」と言われたことを思い起こしました。
この時、内地の母は目の手術をひかえており「50円を送って欲しい」との連絡を受けていました。松矢さんの親切なお言葉に、のどもとまで「50円を貸して下さい」という言葉が出かかったのですが、言わずに帰宅しました。帰宅してから「先生ご自身の必要のためにお使い下さい。」とくださった袋を開けてみると、50円入っており、さっそく内地に送りました。本当に感謝でありました。
松矢兄ご夫妻は引き揚げ後、新潟県にて御苦労なされたが、主の絶大な恵みによって川崎駅の裏通りに住宅を移築され、チャーチオブゴッドのシェルホン総理のよき協力者となり、自宅を御幸キリスト教会として献堂された。特別集会の講師として招かれた折、松矢さんご自宅に案内して下さった神学生は「松矢さんは僕たちのお手本です」と語られた。(写真 20)
雑誌「ホーリネス」ホーリネスの群、に松矢夫人の証詞、チャーチ・オブ・ゴッド御幸キリスト教会が献堂されたいきさつが書かれている。
この家は台湾から新潟へ引き揚げ開拓地に入植した時、雪に潰されない為にこのような柱を用いて建てましたが、此方に移築した時そのまま用いました」と太い柱について理由を語られました。・・・(略)・・・将来の見通しが立たない為、五年前に開墾地を売り渡すことになり、一万五千円で契約いたし、今日買受人が現金を持参すると言う日に電報で破約されました。祈っていった私どもの落胆は大きなものでありましたが、翌晩町から帰った人が、此の開拓地は自衛隊の演習地として買い上げが今日の国会で決定したという意外な話を聞かされました。私どもの開墾地は約百万円の保証金が交付され、此家を移築することができました。
1941年(昭和16年)6月24日。日本基督教団台湾教区創立総会が台北市富士見町教会、上 与二郎先生の教会を会場として開催され、東京の本部より佐波 亘先生が代表として渡台されました。
花蓮港教会役員、及びポタル牧師と出席しました。終了後、富士見町教会の長老、台北帝国大学教授早川二郎先生から、
「小池先生、花蓮港の教会は立派ですねえ」
と初対面の私に話しかけられました。突然のお言葉に驚きながら
「いいえ、花蓮港の教会は御教会の煉瓦造りのように立派ではなく、トタン輯の貧弱な教会であります」
とお返事いたしました。
「建物のことを言うておるのではありません。台湾人も蕃人も来ておるでしょう。」
「ハイ、来ております。」
「私はそのことを言うておるのです。台湾伝道と言いながら教会は台湾人も蕃人もきておりません。内地人ばかりです。これでは台湾伝道と言うことはできません。」
と申されました。このようなお言葉は在台中、一度もおききしたことはありませんでした。
台北教会の会員の小池ヤス姉が花蓮港教会の礼拝に出席して、「小池先生、母教会より暖かな教会ですねえ」と語っておられましたが、心の温かさがあるようにと心がけておりました。
私は台湾人、蕃人の方にも平等に接し、合同前は日基、救世軍、組合教会の信者の方々が出席されましたが、教派にこだわらない交わりは楽しくありました。
戦況は変わり、古清水万太郎副議長からの手紙も「濡れたので乾かしました」と押印があり(「検閲」されたのでありましょう。)配達されるようになりました。
黒金通り(目抜き通り)の台湾長老教会花蓮港教会の高端荘牧師は温容な方であり、親しくお交わりをしていただきました。戦後も文通をしておりました。
長老教会花蓮港教会に出席していた高砂族の信者の人々は、出席がむずかしくなりました。「お前達はまだ早い」と部落の駐在官から言われておると伝聞しておりました。
(<講壇をお借りして:回想>)
同教会に出席しておりましたチュアン伝道師は 数分離れた静かな連雀通りの聖教会にタイヤール族の中のタロコ蕃、次郎君に案内されて2度来訪しました。
チュアン伝道師は台湾人と結婚しておりますが、淡水の神学校に於いて宣教師より教えを受け、「夜分は同族の山地に帰り、秘かに警察の目を逃れて伝道を続けておる」と語っておりました。戦後、蕃地のリバイバルはチュアン伝道師の働きによると伝えられております。
タイヤール族のタロコ蕃の次郎君は言葉も鮮明であり、蕃社では模範青年として駐在官に伴われて、「二回上京した」と語っておりました。
チュアン老師とは次郎君の通訳で語り合いました。二回来訪されましたが、その集会の献金を江古田の聖書塾、蔦田二雄先生の所へ送金しましたが、戦時下であり、その理由を伝えることができなかったのは残念でありました。
その時次郎君は「イエス様は僕のような蕃人を救って下さいました。僕は殺されるようなことがあっても 信仰は捨てません」と証しされました。私は同じ人間でありながら、『蕃人のような者』と語られる次郎君の証しを聞きながら、胸の中で涙をおさえました。
蕃人は物々交換で、お金をあまり使わない生活をしておるため貯蓄があり、献金額は少なくなかった。
TAIWAN KARENKO SEIKYOKAI CHURCH
From the Note>>
I arrived at Kirun port in 29-December-1935.
There was Mr. Oosawa Toyosuke pastor. And he invited us to a hotel.
In 31-December-1935 I arrived at Karenko Kyokai Church.
Some one said "Karenko look like Japan because many of house Japanese-style."
and some one said "Karenko is isolated island on land because traffic is so bad."
Evangelical mission has been started Mr.Nakada Juji pastor since 1925.
My family caroled at Kuroganedori street.
Taiwanese aborigine was tought Japanese from Japanese so we could communicate in Japanese.
300 years ago,Taiwan was under control of Netherland,
so somo of them with blue-eyes.
Evangeling to Taiwanese aborigine was banned but was acqiescended on the land.
もくじ
3.
戦争・弾圧
1942年(昭和17年)6月26日内地では、日本基督教団 第6部日本聖教会、第9部きよめ教会は治安維持法違反(神宮に対する不敬、天皇に対する不敬、国体変革を企図せる罪)という罪状で一斉検挙を受けた。130名以上の教職が検挙され、聖教会では5名の方が殉教された。
(昭和17年 年会 写真 27)
1943年(昭和18年)4月1日、教団部制を廃止。4月7日、ホーリネス系全教会に「宗教結社禁止令」が伝達された。
なお昭和20年10月13日「治安維持法」の廃止により、起訴された教職等は免訴となる。
戦後、実際に内地で弾圧を受けられたご家族のお証しを聞いた。昨日まで友人であった同じキリスト教徒、牧師たちが、ホーリネス教会の牧師と同じように弾圧されることを恐れて、一切の交わりを断ったことを聞いた。殉教された高名な牧師先生のお葬式にさえ、家族以外の者はだれも出席しなかったそうである。
1942年(昭和17年)6月26日弾圧。当時の様子は、『目で見るホーリネス・バンド』(ホーリネスバンドの軌跡刊行委員会)に薄々講義所の写真などとともに収録されている。
また『ホーリネス・バンドの軌跡』(ホーリネス・バンド昭和キリスト教弾圧史刊行会)に諸先生方とともに小池章三牧師の証言も「弾圧下における台湾の状況」と題して掲載されているが、手記にはあまり記述がない。
弾圧については、
1943年(昭和18年)4月7日、台中方面の家庭集会に出かけていたが、「早く帰れ」という心の声に従って夜10時に帰宅した。
「ただいま」と言って上着を脱いだとたん、玄関の戸が開き、7人程の特高警察が入ってきた。なべ、かま、米びつ、衣類以外の物には全て封印をしていった。
4月8日。早朝、大きなトラックがやって来て、教会内の封印された物を全て持ち去った。時計、提灯、太鼓、書類、書籍、手紙、机、イス、座布団、講壇。教会の中に何も残らなかった。「夕方7時に、花蓮港警察に出頭するように」と言い渡された。父は二度と帰宅できないことを覚悟し、新しい肌着に着替え警察に出頭した。
1.信仰の放棄・・・これは拒否
2.牧師職の剥奪
3.宣教の禁止、信徒との交流禁止
4.聖書の提出・・・すでに押収されているが拒否。
を申し渡された。
当時はまだ36歳の若い教師であったため、帰宅を許された。台湾部長であった古清水万太郎先生のみが拘留されたのである。
基督教長老教会花蓮港教会の高端荘牧師は「何かお手伝いすることはありませんか」とかけつけて下さった。
昭和16年に教会の土地142坪2.5合を県庁より払い下げを受け、新会堂建築に向けて歩みだした矢先の弾圧による教会解散、牧師職剥奪、信徒との交流禁止であった。
この時のことを手記には
【私は弾圧、教会解散の時、「この地の人々にどの様に受け止められたか」、「日頃、けんめいに努めた証しができておったかどうか」の恐れを持ちました。】
と書いている。
前掲書から引用し、当時の様子を描く。
[信徒との交流が断たれ、孤立無援の感であったが、主は慰めの手を延べられた。隣家の大石理蕃課長夫人をはじめ、隣組の各位、花蓮港長老教会高端荘牧師、役員有志、更に未知の方々の来訪。元警視古藤斉助氏の会社をはじめ アルミ会社、20有余の有力会社、事業所の就職勧誘の来訪を受け、7年3ヶ月の伝道生活の証しが立てられたことと主の憐みを感謝した。]
[6月19日 台湾日々新聞花蓮港支局長加藤精一氏の夫人が来訪され、「役所の廊下で理蕃課長の大石さんが、『私は7年間小池さんの話を聞いていたが、悪い話は1度もなかった。あなたは聞いたことがあるのか』とM刑務課長に抗議されたことが裏目となり、“小池を苦しめてやれ”と立腹されたMさんが、各会社を廻り、小池は反国家的思想の持ち主で採用するとあなたの会社に迷惑がかかります、と妨害していますから、市内での就職は困難と思います。」というご主人からの言葉を伝えられた。]
[翌20日M課長に面談を求めて、「ご存知のように私共には貯えがありません。花蓮港で再起したいと思いましたが就職ができませんので台南へ行こうと思います。台南におります友人小林喜美雄氏の紹介により、南日本製塩会社に社長の好意により採用が決定しております」と申し出た。要監視人である私の異動を好まないM課長は花蓮市警察熊谷署長に就職の相談をするように指示、熊谷署長は直ちに、同盟通信花蓮港支局長を訪ねなさいと指示され、高木局長に面接した。
帰宅して間もなく熊谷署長より、花蓮港食糧管理組合を訪ねるように、との連絡を受け、直ちに出向。専務理事梅津三郎氏に面接した。
初対面であったが、梅津専務理事は過年、運輸会社朝日組、古賀朝一郎氏夫人(教会員)の納棺式に列席、更に小野うら姉(教会員)よりの伝聞により、すべてを熟知されており、好意をもって空席の庶務主任として採用された。県内の全食糧の配給業務を行い、理事長高橋四与大六氏(陸軍主計中尉)、専務理事梅津氏(陸軍伍長)、主事田村武雄氏(陸軍軍曹)3氏は、刑事の来訪に際し、常に擁護下されたことを後日伝聞し感謝に溢れた。]
[6月20日、就職も決定し、自分の語った福音の証人としての覚悟も新たに歩みが開始されたが、一週間後、晴天の霹靂、意外な展開に呆然となった。M課長の通達により、強制的に教会建物の明け渡し、指定家屋への転居、監視下におかれ、教会建物は刑務課分室として昭和20年10月まで使用された。このような扱いは花蓮港教会だけであった。]
引用終わり。
(<弾圧の中でも差しのべられた手:回想>)
玉里駅より台東駅の中間に「大庄」という小さな駅がありました。小学校の先生ご夫妻が台北の師範学校を卒業された篤信の方でした。
「信仰を放棄するなら玉里小学校の校長にしてやるから」と誘われましたが、断り続けました。
戦後、玉里小学校の校長になり、日本に引き揚げました。埼玉県の学校へご夫妻で就職。子供さん方も成長してご両親に倣い、信仰生活を励み、うるわしい家族でありました。
1944年(昭和19年)7月25日、召集令状が来る。
7月30日、第十方面軍66師団1789加藤部隊、工兵隊に入隊しました。「第二国民兵」でありました。(写真 25)
台東市の小学校が第一宿舎。一ヶ月経過の花蓮市外地南地区に移動。昭和20年2月18日の晩移動するまで工兵独特の訓練が続きました。
台湾に米軍が上陸して来た時に、ヒットラーの戦術と言われるフトン爆雷を背に付け、敵の戦車の下にもぐりこんで自爆する戦車攻撃の訓練をしておりました。この訓練中、地に伏せるとき、腰に付けておる「弾嚢」を払いそこね、肋骨挫傷。35日の入院となりました。
(<お見舞いの思い出:回想>)
入院中に、三少隊第5分隊に配属されました。 移動の晩、五分隊の私は、小さな声で「小池、小池」と呼び出されました。アミ族蕃人(アミ族の蕃人は平地に住んでおり、内地人婦人と結婚しておる者もありました。私は分かりませんが私が路傍伝道などしており、彼の方で知っておったのでしょう。)「班長が殴ると云っておるから気をつけろ」と親切な言葉を残して暗の中に消えました。
・・・この時、同年兵の一人がマラリヤの黒水病になり花蓮港病院に入院。何名かのO型の兵士が輸血のため、山から病院に通い生命が助かり、退院帰隊いたし舎内に在って軽い仕事をしましたが血液型が変わったと話しておりましたが、輸血は有難い事である事をまざまざと知ることができました。
12月31日。部隊の遺言、遺髪の整理に副官(中尉)と佐伯伍長に伴われ小学校へ一泊。翌朝、米艦からグラマン機の襲撃をうけました。晩に「家族に会ってこい」と返してくださいました。遺言、遺髪の整理をした時でありました。
美都子さん(次女)の誕生日(2月18日)、花蓮港の田舎、地南を夜分、教会のそば、上甲商店の前を行軍。昼はグラマンの攻撃があります故、夜分の行軍となり、22里の臨海道路を踏破して宜蘭までの長い長い行軍となりました。
(<疎開の思い出:回想>)
不思議と常に将校のそばにおり、この時夜間病人を連れて宿につきました。ドンチャン騒ぎの兵士。女中さんに「病人を連れておるので静かにしてくれませんか。」と将校が頼みますと、「兵隊さん。あの方々は明日沖縄に飛ぶ方。許してやって下さい。」と言われ、特攻隊の方であることがわかりました。夜中の2時頃 眠りからさめますと静かでありました。沖縄の沖で戦死されたことでありましょう。
何かの用件で高尾の駅長さんのお宅におりました時、聖書学院入学前にお世話になりました御家庭の長男、諏訪太一君が(ホーリネス上諏訪教会の教会学校に出席)「小池さん。明日沖縄に飛びます。」との挨拶をなされました。私は驚いて何と返事をしたか覚えがありません。
戦後、ホーリネスの群中央委員として沖縄の教会を問安した折、新川広子先生が「軍艦にあたった飛行機は一つもありませんでした。」と語ってくださいました。私はまぶみの丘から「太一君」と叫びました。家内の弟、幸男君も少年特攻隊員であり、鹿児島から「明日、沖縄に飛ぶ」と待機していましたが、8月15日終戦となり無事であったと聞いております。(家内のおじさんは すでに特攻隊員として戦死されておりました。)
(写真 25b)。
1789部隊で中央山脈を越えたのは将校と小池と二人だけでありました。他の方々は列車で台北へ入りました。将校に伴われ、三点礁。(1894年に北白川宮能久親王が上陸なされた中央山脈)を越えて台北の軍司令部を訪問。古清水万太郎先生のご家族に面会。台北郊外の部隊に合流した。
やがて部隊内に新設された情報部に抜擢され、笠少尉、横川准尉、佐伯伍長、奥村兵長、小池一等兵で組織され、「極秘、機密の整理。ラジオの聴取。」
8月15日、「ポツダム宣言を受諾するに至れり」と悲痛に満ちたお声を拝聴いたしました。
終戦の年、8月某日1789部隊情報部に入った通達ですが
ピィリッピに於いて捕虜となった米軍兵士の言葉を他山の石として考慮すべきである。マッカーサー将軍はアメリカに於いても古今の名将であって、今は戦に負けてアメリカに引き上げたが、戦機がととのえたならば再びやってきますと語っています。人材は尊いので玉砕してはならない。テニヤン島の兵士の様に 昼は穴にかくれ 夜分は地の利を得て戦うべし。
との通達に戦前とは大きな変化でありました。
ポツダム宣言のチラシは米機からまかれ、台湾人より届けられており悲しいものでありました。
昭和20年9月1日 召集解除。2日帰宅した。
昭和20年9月2日。帰宅した。私は鳳林長老教会、徐牧師宅を訪問しました。顔を合わせた途端、「小池先生、次郎が殺されました。」と大声で叫びました。私は「どうして」と言いながら絶句しました。
「小池先生、次郎は駐在官に父親の目の前で根棒でなぐり殺されました。」
と話して下さいました。
次郎君はチュアン老師と来訪された時 語られた通り殉教者となりました。次郎君の弟は軍夫として召集され南方へ行っていますが、私共が弾圧を受けた頃、蕃社の駐在官M氏に呼び出され、父親の目前で信仰の放棄を迫られました。「殺されても信仰を捨てません」と告白し、「よし、殺してやる。」と根棒でなぐり殺されました。
蕃社の人々は父親に「Mさんの片手か片足をもらってはどうか」と言ったそうですが、次郎君の父親は「『イエス様は汝の敵を愛せ』と教えておられるから、許してやろう。悲しむことは俺だけでいいよ。Mさんも長い間ここにおられて世話になっておるから、クリスマスにごちそうしてお別れしよう。」と皆をなだめたそうである。この言葉に誰も反対できずそのようになったということを話して下さいました。
経済担当の駐在官の中には このような仕返しを受けたと聞きました。早く気付き沖縄に逃げた方は助かったと聞いております。
1952年9月東京神学大学に於いて第二回全国教職研修会に出席しました。研修終了日、証し会があり次郎君の殉教前后を語りました。終わりますと兵庫県から出席した某牧師が立ち上がり、そのMという巡査は私の親類のものですと立証された事も大きな驚きでありました。
注釈:『ホーリネスバンドの軌跡』に収録されている父による記事「弾圧下の台湾の状況」より、戦後の台湾の様子を知ることができる。以下に引用する。
[昭和20年9月1日召集解除、2日帰宅した。
同年12月某日、花蓮港長老教会呉天賜牧師が来訪。「高端荘先生がお世話になりました。ご恩返しを私がいたします。県知事と警察署長に面談いたし、教会再開の許可を受けましょう。」という呉牧師の好意を感謝し、案内され面接許可を得たことである。
東京からの情報は入らなかった。一同感謝に溢れクリスマス祝会を守り、伝道再開の決意を新たにした。
昭和21年正月、民情のよい台湾からの日本人引揚は数年先と伝えられていたが、中旬から急変、三月頃との噂が流れ、人々は動揺した。1月末、県総務部より日僑管理委員会の設置、民間人7名が選任されたという通達があり、私もその一人に加えられていた。
教会を引揚事務所として借用の申し込みがあり、2月1日から日僑管理委員会事務所として総務部長の指揮の下に、十数名の職員によって引揚者名簿作成作業が開始され、様式変更が幾度かあり、一人に7通の書類作成は困難であったが、遂に4月18日、約80日の労苦の結果、花蓮県内日本人全員の名簿作成作業を完了、各自別れを惜しみつつ事務所は解散された。4月19日、収容所に入所。20日収容所より許されて外出し、長老教会を訪れた。]
注釈:この時のことを手記では次のように書いている。
昭和21年2月。戸塚林平兄のお子さんが県庁に勤めており、その方を通して総務課より「引き揚げ者名簿作成のために礼拝堂を借して欲しい」との要請があり、受諾いたし、二月より十数名の職員が毎日集まり、作業が開始された。幾度か変更があったとのこと。一人7通の書類の作成は3月19日完了し、花蓮港聖教会に於ける全ての働きが完了した。
高端荘先生は「これからは私達が先生をお守りしますから台湾に残ってくれませんか」と言って下さった。「故郷に両親もおり、敗戦の苦しみを共にしたいので帰ります。」とお答えすると、「何かお手伝いすることはありませんか」と神学校を卒業したばかりの呉天賜先生を引越しのお手伝いにと遣わして下さった。荷物の整理が遅れ、漸く20日に指定の箇所に届けましたが多忙なことでありました。
4月21日、引き揚げ船乗船の前日、台湾長老教会(花蓮港教会)を訪問しました。数名の信者が「小池先生、いろいろありがとうございました。チュアンが昨日死にました。これから私達はお葬式に行きます。」「お年は幾つでしたか。」「72歳です。」お別れの言葉を聞きながら「皆様によろしく」とのべて別れました。
4月21日、700トンの海防艦がアメリカの故障した14000トンのリバティ艦を曳航して一週間がかりで鹿児島に入港しました。日本の海軍に於いても700トンの海防艦が14000トンのリバティ艦曳航は初めてだと話しておりました。
(<引き揚げ:回想>)
注釈:一人7通の書類の作成は3月19日完了し、花蓮港聖教会に於ける全ての働きが完了したと手記にはあるが、姉の記憶によれば4月である。
4月21日、700トンの海防艦と手記にはあるが、姉の記憶によれば750トンである。
もくじ
4.戦後
父の願いは再び伝道者として伝道の一線に復帰することであった。牧師資格を奪われて就職した時も、また軍隊に於いて生活する時にも「再び牧師として講壇に立つことが許された時に、後ろ指をさされることのないように、生活を乱さないように心がけた。」と語っていた。
昭和21年6月26日。「文部省より教師職回復について一任」を受けていた日本基督教団より「辞令」が送付され、日本基督教団の牧師としての資格を回復した(写真 30)。こうして父の弾圧の歴史は終わった。
昭和22年10月30日 山梨県富士吉田市の現富士吉田教会に着任。教会の玄関の戸は戦時中の弾圧によって貼られた「封印」がそのまま残されていた。11月2日。封印を切って 戦後第一回の礼拝がなされた。
戦後も高端荘先生、ポタル先生、隶朱塗兄、その他台湾伝道時代の信者の方々との交流は続いた。
昭和27年9月。 地域の人々に「キリスト教の精神に基づく保育をとおして伝道したい」との願いのもとに恵泉愛児園を開設した。
来訪されたポタル先生の黒い長いヒゲを見て、「あっ、黒いヒゲのサンタクロースがいる」と園児が驚いていた。隶朱塗兄は息子さんが献身して伝道者となられた。この大阪をも訪れた。呉天賜先生も10数年前、東成教会で礼拝説教をなされた。
ポタル先生の息子さん、呉先生とも親しい交わりが始まり、加えて台湾長老教会の牧師先生と交わりの輪が広がった。
花蓮港聖教会の会堂で、子供の頃遊んだ経験を持ち、林異雷先生の神学校の生徒であった牧師先生ご夫妻とも親しくなった。
さらに医師であり牧師でもあられる台湾出身の先生ご夫妻とも親しくなった。私は戦後に生まれ、両親の台湾伝道の時代を全く知らないが、このような者にも温かいお交わりをしていただき感謝である。
2001年2月27日 台北の教会で夫の博士号授与式が行われ、私は初めて台湾に行った。両親の愛した台湾の地に立つことはとても意義深いことであった。
木々も、花も美しい熱帯の色であり、一つ一つをしっかり目に焼きつけようと思った。梅の花が咲き、瓦葺の木造家屋は日本の統治時代を想像できるしっかりした建築物であった。
私はこの時、父の台湾伝道時代の記念写真のコピーを持参した。
授与式は大変友好的であった。式の後、お祝いの昼食会が開かれ、中華料理をいただいた。円形テーブルで私の隣に座られたのは神学博士号を授与された牧師先生の夫人であった。現在、かつての蕃社で伝道されている。日本語で次のように話しかけて下さった。
「父は私が3歳の時、日本人に兵隊にとられ、そのまま帰って来ませんでした。家は日本人に焼かれ、壊されました。仕事もなく、道具もなく、自分達の手で木を倒し、荒れ地を耕し、とても苦労しました。」
穏やかな、温かい表情で、やさしい声の方だった。そして両手の平を見せて下さった。今もその手を忘れることができない。年齢より5倍は老けて見える手であった。それが全てを物語っていると思った。
私の両親はキリスト教の伝道者として、誰をも分けへだてせず、悔いの残らない生活をしてきた。弾圧の中でも救いの手を差し伸べて下さった軍関係者、警察署長、元警視、その他多くの方々がいた反面、M刑務課長が、内地にも見られないような家財没収、教会からの強制退去、就職の妨害、を行ったことを思うとき、この牧師夫人の言うことを無視することはできなかった。
同じ日本人に対してさえあのようにしたのだから、植民地の人々にはもっと厳しかったであろうと思った。私は台湾人を苦しめた日本人の一人として「大変なお苦しみを負わせて申し訳ありませんでした。」と謝罪した。
夫人は優しく「これからは文通しましょう」と 美しい漢字で住所、氏名を書いて下さった。私も同様にした。クリスマスカードを送ったが返事は届かなかった。夫である牧師先生の目は怒りに満ち、無言で、厳しい表情を崩すことはなかった。これもまた現実である。植民地政策の傷跡もしっかり残っていた。
昼食会の後、セン先生ご夫妻は 台北県淡水にあるマッカイ博士を創設者とする真理大学へ案内して下さった。先生のお子様がこの有名校マッカイ高校の卒業生であった。
一週間後にマッカイ博士のお孫さんが来校されるため、暖房の準備などで多忙であられたが、マッカイ博士の書斎、さらには寝室までも見せてくださった。父が洗礼を授けている写真をお見せしたところ、
葉学長先生が「台湾には戦前、戦中の写真がほとんどありません。これをいただいていいですか」と大変興味を示された。
先生はマッカイ紀念資料館の鍵をわざわざ開けて下さり、中を案内して下さった。
帰国後 私は父の写真のコピーと昭和13年当時の花蓮港の絵葉書(本物)2枚をお送りした。
ここは、かつて父から聞かされていた「チュアン伝道師が淡水の神学校で宣教師から教育を受け・・・」という、まさにその場所であった(写真 39)。マッカイ博士ご夫妻のお墓も訪れることができ、主のお導きに感謝でいっぱいであった。
昭和21年6月26日の辞令により日本基督教団の正教師に復職した父は東海教区常置委員を2年、山梨分区長を6期12年務めた。ホーリネスの群れ中央委員会の委員として後輩の育成を心がけた。
甲府刑務所の教誨師として24年間奉仕した。父の戦後の伝道は苦労の多いものであったが、多くの人々からの励ましや喜びも与えていただいた。しかし、穏やかな終わりとはならなかった。娘である私が、父と同じように時代のうねりに直面し、「キリスト教の教師」となるための激しい戦いに直面してしまったからである。
私は大学卒業後、献身し、東京聖書学校を卒業した。いよいよ日本基督教団の教師となるべき年を迎えたが、1960年代の大学紛争の嵐の中で日本基督教団は混乱し、卒業した年には教師検定試験そのものが中止となった。私は信徒伝道者の身分で父の教会に赴任した。
教区の面接試験において教区長は開口一番「あなたはホーリネスの信仰に疑問を持ったことはないのですか。」と尋ねられた。私は驚いてはっきり答えた「ありません。」1970年代ですら、弾圧を受けた者とその子孫はあなどられていた。私は両親の信仰を「恥ずかしい」と思ったことは一度もなかった。
試験は翌年再開された。ペーパーテストは従来と何ら変化はない。しかし、「信仰告白」に関して「二重の基準」が容認されていた。「イエスをキリストと告白できない者も切り捨てない」のだ。
この試験を受験することは、私にはできなかった。教職になるための信仰のたたかいが始まった。最も親しかった先輩も「今日から友達ではないから。」と宣言して去っていった。歴史のどこかで有った光景が繰り返されている。いずれの日にか私の戦いを記す日も来るであろう。
もくじ
5.
台湾花蓮港聖教会の最期
父の伝道の働きを支えたのは母である。母は明治45年1月5日長野県に生まれ、昭和2年12月24日 上諏訪ホーリネス教会で高橋俊三先生(写真 31)より洗礼を受け、後に「きよめ」の恵みにもあずかった(高橋俊三先生は翌年3月シンガポールへ開拓伝道に行かれた。弾圧の時に殉教)。
14歳の時、叔母に山田はまの姉の家庭集会に導かれた。山田はまの姉はセキズイカリエスを病んでおられたが、明るく信仰の篤い方で、英語の教師として再起する日を望みつつ、熱心に伝道されたキリストの証人である。
家庭集会で初めて聖書のお話を聞いた時、「この神様は福田先生の話して下さった神様だ」と気付いたそうである。母がまだマゲを結い、ゲタをはき、御高祖頭巾をかぶって雪の日に小学校へ通った時代に、担任の福田先生は袴に毎日革靴をはいてこられた。
「校長先生はお式の時だけ革靴をはくけれど、私達の福田先生は毎日はいておられる」
と生徒たちには憧れと自慢の先生であった。
先生は昼食の時間、食前に必ずお祈りをされ、生徒がお弁当を食べている間「神様のはなし」をして下さったという。福田先生によってまかれた福音の種が、家庭集会によって育てられていった。
母は「己に死んで主に仕える」信仰であった。母もまた「祈りの人」である。両親は「不平を言わない。感謝する。祈る。」という共通の信仰の姿勢を貫いている。
生後6ヶ月で台湾に渡った姉も、すでに70代に入った。1996年、姉は夫とともに、あの花蓮港聖教会を訪れた。懐かしい裏庭の井戸、父の書斎、何もかもが残っていた。この家に住んでおられる方が、「ここは一週間後に取り壊されます。」と教えて下さった(写真 41)。
姉は父に詳しく報告し、小学校近くの花岡山公園、花蓮港飛行場など往時を懐かしく語り合った。
2000年8月谷口和男牧師は、取り壊され駐車場となった教会の跡地を写真に収めた(写真 42)。台湾花蓮港聖教会は完全にその歴史を閉じた。この年の10月、小池章三牧師も、その65年の伝道の歴史を閉じた。召されたその時の表情は、満面の笑顔であった。遺体を安置した部屋は不思議と花の香りがあり、葬儀・告別式には600名を超える列席者があった。
戦後64年を経た今。大木へと成長したあの生垣の木は、これからもここに繰り広げられていく人間の歴史を静かに見守り続けていくのだろう。小出忍著『ホーリネスの群と教団の軌跡』に収録された写真には、私の父の膝元に幼いころの和牧師が写っている。信仰のバトンは確かに渡された。主の恵みによってさらに前進することを祈って筆を置くことにする。
もくじ
<付録:回想>
注釈:母、小池なを江の回想である。
親子三人で「台湾へ伝道するために遣わされる」ことを告げるために本家に挨拶に行きました。おじい様が
「首切り蕃人のいる台湾などにいかないで、どこか内地においてもらえないものか本部に頼んでみてはどうか」と大変心配しましたが「地の果てまでどこへでも伝道に行こう」と思っていたので何の心配もありませんでした。
言葉が通じ会いますから紙しばいを見せながら聖書のおはなしをしました。彼らはとても熱心に聴いていました。聖書の話が相手に通じているか心配になりたずねてみました。「絵を見ているのでよくわかる」と言っていました。
日中は駐在官の監視が厳しいので、夜間洞窟に集まって紙しばいを見、それを持って伝道にまわっているということでした。紙しばいはぼろぼろになっておりました。
集会の際、足の泥を洗って会堂に入った蕃人たちは日本人、台湾人と一緒に椅子に座ることはありませんでした。椅子に座るようにすすめても、床に座っておりました。
野菜売りの女性達は「ババヘイ」(女性の意味)と呼ばれていましたが、本人たちもその言葉を嫌うので、「奥さん」と呼んだことでした。彼女達はカゴに一杯の野菜をもって売りに来ました。お金と交換するのではなくて、日本人の衣類と交換することを求めたので、浴衣と交換しました。彼女達はその浴衣を大変喜んで、それを着ては腰に彼らの作った紐を結んで歩いていました。
ある日、台湾人が日本にも蕃人がいるといいました。おどろいて尋ねてみると「沖縄人は着物に腰にひもをして、頭でものを運ぶから。台湾の蕃人とおなじ恰好をしているから、沖縄人は日本の蕃人」といいました。
台湾人も蕃人も内地人と同じ服装をすることを好みました。県庁より「衛生上の問題が起こらないように、古着を与える時は、必ず洗濯した物を与えるように」と通達がありました。
蕃人が靴をはいた時には、台湾人も蕃人も見分けがつかない内地人と同じ姿になりました。
教会に出席する時に、はだしの足を井戸で洗わなくてもよいように蕃人達もくつをはいてくるようになりました。
蕃人は一週間くつをはくと、はだしの生活には、足が痛くて戻れないと言っておりました。
夏の暑い時期には集会に来られた方々のために「うちわ」を用意しました。講壇で汗をながし手ぬぐいで拭くだけの牧師と、座って「うちわ」で扇ぐ会衆が対照的でした。汗でぬれたシャツは浜風の影響でしょうか乾くことはなく、洗いなおすしかありませんでした。
暑いので各自サイダーなどを持ち寄り飲みました。サイダーは水に代わる身近な飲み物でした。
引き揚げの道中、のどが渇いた娘が「サイダーを飲もう」といいましたが、内地にサイダーはありませんでした。
ある日は教会の入口に片方しかない靴を見つけ、犬が片方をくわえていったのではないかと夫が捜しておりました。
「先生、それは僕のクツです。」と林兄がいわれました。
子供の頃列車に右足首をひかれたとのことでした。義足を同じ物を2本作ってさしあげました。 「先生、一本多いです」と言われたので、「壊れた時の予備だよ」と語りあったことでした。
戦局が押し迫り長老教会への警察の監視の目は厳しさを増しました。
「ここは私の管轄下ですからご心配なく」
と夫はかばっていました。夜の集会を長老教会花蓮港教会で開かせていただきました。集会の冒頭、必ず「尊い講壇を日本人である私にお貸しいただいて、ありがとうございます」と感謝を述べていました。
長老教会に出席しにくくなったのか、早朝食事の準備のために外に出ると、生垣の下に大勢の蕃人達がおり思わず声を上げそうになりました。夜のうちに山から下りてきたようです。はだしの人は井戸で足を洗って礼拝堂に入りました。礼拝堂の後ろの方にあぐらをかいて座っておりました。出席者の半数が蕃人であるほどにまで数が増えていきました。
戦局が進むにしたがって公学校の教育もすすみ、私たちが着任した頃よりも蕃人達の日本語は上手になっていきました。出征の時は顔に入墨のある蕃人は手術をして入墨を取り除きました。入墨を入れている蕃人が減っているように思いました。
教会から全ての物が運び去られる時、まるで「キリスト教は悪い宗教だ」とご近所の方々に見えはしないかと、大変恥ずかしかく思いました。特に時計を押収されたので、今が何時かわからず困りました。
そんなある日、きちんと髪を結い、和服の日本人女性が教会を訪ねてこられて、
「このたびは大変でしたね。これを・・・」
とお見舞い金を下さいました。
「どちらさまでしょうか。お名前を・・・」
とお尋ねすると、
「それはちょっと・・・」
と言われて帰って行かれ、すぐ後を追いましたが、もうお姿はありませんでした。
この方の下さったお見舞い金により、就職が決まるまでの75日間を生活することができました。
教会内の備品が封印され押収されていく中で棚の上に置いてあったサイフも押収されてしまいましたが。2日ほどたって、警察官が「これは返します」とサイフに入っていたお金は返してくれました。
教会からも立ち退かなくてはならなくなり、警察の用意した汚い宿舎に家族5人は引っ越した。「ついにここまで来たか」と裸電球が1つ吊り下がっている家の中で思いました。
台湾は1日1回スコールがあります。雨の上がった後、食用カタツムリが一斉に出てきます。その頭部を切り取り、灰でもんでぬめりを除き、油でいため塩味で食べることができます。モッカ、マンゴー、パパイアは種を取り、皮をむいて朝ぬか床に入れ昼にはほどよい塩味の漬物となり、昼につけたものは夜には食べることができました。
種は土に落ちると自然に芽をふき、すくすく育ち実がなるので、人々はサトウキビを栽培し、収穫しては製糖会社に売りに行っていました。池ではアヒルを飼い、豚も飼う。私の父はある日訪てきましたが
「あと10年若かったら、ここで動物を飼いたかった」
と言いました。
内地から野菜の種を持っていくので野菜の種類は豊富で、何でもありました。
平地で海のそばに住む蕃人は、海に潜っては魚を獲り、ピチピチ動いている魚を売りに来て、お刺身を望むと蕃刀で“活造り"を作り、煮物用を望むと切り身を作りました。平地に住む蕃人のほうが高地の蕃人より豊かであったように思います。
マラリヤを防ぐ蚊取り線香と蚊帳は欠かせませんが、あたたかいので大変暮らしやすいよい所でした。
子供のころから荷物はすべて頭の上にのせて運び、両手はあいていました。どんなに重い荷物でも手に持つことはなく、頭にのせて運んでいました。
花蓮港聖教会の会員、梁阿胡医師ご夫妻は「小池先生の留守中にご家族に何かあってはいけない。」と「カミヤマト」にある医師所有の借家に引っ越しさせて下さった。夜分は山地からおりてきた蕃人も「私の部落に来て下さい。」と声をかけて下さいました(写真26)。
昭和20年は沖縄からの米軍の空襲が激しくなり、サイレンが鳴ると防空壕に入るのだが、次女はいつも「ゲタがはけない。ゲタがはけない。」と泣き、一度は逃げ遅れて家の中におりました。機銃掃射後、家に入ってみると、次女はちゃぶ台の陰に無事におりましたが、ちゃぶ台の足に弾が当たっていました。弾が貫通したタンスの中では衣類が綿のようになっていました。
空襲が激しさを増すと日中は山へ逃げるようになりました。8歳、4歳、2歳の娘を連れて避難しましたた。山で石をどけると小さなカニがたくさんおりました。それをつかまえて空き缶に入れ、夜帰宅してから油で炒め、塩をふって食べることができました。
ある日、製糖会社が爆撃されました。床のコンクリートの上、一面に砂糖が溶けて流れ出し、砂糖の固まりができたといって、皆、鋤や鍬をもって、それを拾いに行きました。さそわれましたが、私は出かけませんでした。
訓練中に負傷し、入院したとの知らせを受けました。私は蕃人が衣類と交換して置いて行ったしょうがを薄切りにし、水につけて辛味をとり、ゆでて砂糖をまぶしてしょうが菓子をつくりました。それを一斗缶に詰め、弟の妻と共に病院を訪れました。(弟はラッパ兵となり、中国大陸を転戦。第一級傷病兵として台北病院に送られていました。)「兵隊さんたちに喜ばれた」というはがきが送られてきました。
4月28日、鹿児島に上陸、しろやまの小学校に一泊しました。そこで赤いご飯を出してくださいました。長女は「内地ではお赤飯を食べるのか」と思ったそうです。それはコーリャンでした。列車で広島を通ったとき、建物はありましたが、木は一本もありませんでした。後でそれが原爆によるものであると知りました。
<付録:写真集>
写真1
昭和4年、中田監督、丹羽先生 上諏訪ホーリネス教会
At Kamisuwa Holiness Churuch with Mr. Nakada Juji(pastor) and Mr. Niwa (pastor)
写真1b
昭和5年8月1日、第一回木曽リバイバル聖会記念
写真2
上諏訪ホーリネス教会
At Kamisuwa Holiness Churuch
写真3
上諏訪ホーリネス教会 右側上段と左側下段右
ポタル先生とともに 左側上段右
At Kamisuwa Holiness Churuch [Right-page Top]
Mr.Potaru (pastor) [Left-page Top-Right]
写真 4
昭和6年 6月 斎藤保太郎先生 歓迎会
丹波かめ先生送別会
(Jnue-1931) with Mr.Saito Hotaro(pastor) and Mr. Niwa Kame (pastor)
写真 4a
昭和8年 高遠ホーリネス教会
(1933)Takato Holiness Church.
写真5
初めての任地 瓜連聖教会 右側下段
Urizura SeiKyoukai Church.
写真5拡大
出征時の旗行列
Show the frag.
写真6
大沢忠次先生とともに
古賀朝一郎氏の書斎にて。昭和17年
In the Koga Choichiro's Office.
Mr. Oosawa Chuji(pastor) and Koike Shozo.
写真7
台湾の絵葉書
Postcard of Taiwan.
写真8
台湾花蓮港絵葉書 左側上段 花蓮港駅
Postcard of Taiwan Karenkou.
写真9
台湾の絵葉書 右側中段 花蓮港全景
Postcard of Taiwan Karenkou.
写真10
西港教会 上段中
大稲程教会 上段右端(昭和12年12月12日、献堂記念。
山里先生<左から2人目>、大沢先生<左から3人目>)
台中教会 下段左端
新竹駅鉄道倶楽部 下段右端(新竹駅長市川氏を中心に)
Seiko Kyokai Church. [Center-Top]
(12-December-1937)Ooinato Kyokai Church. with Mr. Yamazato(pastor) and Mr. Oosawa(pastor) [Left-Top]
写真11
台湾での伝道
Karenko Prebyterian Church.
写真12
花蓮港教会の外観
Karenko Presbyterian Church.
写真13
花蓮港教会の内部
昭和11年5月下旬
Inside of Karenko Presbyterian Church.
写真14
花蓮港教会の内部
Inside of Karenko Seikyokai Church.
写真15
昭和17年。花蓮港教会の内部
Inside of Karenko Seikyokai Church.
写真16
昭和15年。花蓮港教会
Karenko Seikyokai Church.
写真17
昭和14年。花蓮港教会
Karenko Seikyokai Church.
写真18
台湾花蓮港絵葉書 左側中段 黒金通り
Postcard of Taiwan Karenko.
写真19
昭和13年9月。小原十三司先生 花蓮港教会
Karenko Church. with Mr. Obara Tosaji (pastor).
写真20
チャーチ・オブ・ゴッド、御幸キリスト教会にて開かれた集会に講師として招かれた時の集会案内
Chruch of God - Miyuki Kirisuto kyokai Church.
写真20a
チャーチ・オブ・ゴッド、シェルホン総理(レイモンド・シェルホン先生)とともに写る松矢新吉兄
中央:松矢新吉兄。左:シェルホン総理(レイモンド・シェルホン先生)
Dr. Matsuya Shinkichi and Mr. Shelhorn (pastor)
写真20b
故松矢新吉兄告別式、小池章三牧師の弔辞
昭和57年6月26日
昭和48年7月自費によって献堂されたチャーチ・オブ・ゴッド、御幸キリスト教会にて
写真20c
雑誌「ホーリネス」ホーリネスの群
松矢夫人の証詞とチャーチ・オブ・ゴッド、御幸キリスト教会献堂のいきさつ
写真21
昭和15年11月23日。洗礼式の後で
Baptaising in Taiwan.
着席右端 ポタル先生
着席中央 古清水万太郎先生
写真22
昭和15年11月23日。洗礼式の後で
Baptaising in Taiwan.
写真23
洗礼式の様子
11年11月22日。大沢豊助先生による洗礼式
Baptaising in Taiwan.
写真24
11年10月13日。洗礼式の様子
Baptaising in Taiwan.
写真25
昭和19年8月。出征 小池章三と義弟
Going to front of war.
治男さんの出征【三宅セイ姉のご主人のご好意により、花蓮港一の旗が用意された。この後、戦況の悪化により、出征の旗は自粛されることになった。】
昭和15年5月25日
写真25b 幸男さんの様子
写真26
梁先生ご一家 右頁下段
Mr. Ryo (pastor)
写真27
昭和17年3月。弾圧直前の年会
The last Meeting of Chruch before Oppression.
写真28
林先生送別会 花蓮港教会
Karenko Seikyokai Church. with Mr. Rin (pastor)
写真29
昭和14年10月14日。車田先生ご夫妻
Mr. and Ms. Kurumada.
写真30
復職の辞令
The end of oppression.
写真31
高橋俊三先生 シンガポール(1928年2月)左側上段右
大連聖教会(昭和13年12月18日)右側下段
佳里聖教会 左側下段右
Mr. Takahashi Shunzo [Left-page Top-Right]
Dairen Seikyokai Church [Right-page Bottom]
Kari Seikyokai Church [Left-page Bottom-Right]
写真32
葬儀の様子
A memorial service.
写真33
台湾での伝道
新竹駅長市川兄を中心に 上段
台南教会にて。左:高進元牧師。右:古清水部長 下段左
楽生院、訪問の様子。左:古清水部長。右:池田台湾部長 下段右
注釈:楽生院の訪問を生前次のように語っていた。
【ハンセン氏病療養所を何回か訪れ、礼拝の時間をもちました。説教者の講壇と聴衆の座席の間には大きな溝が掘られており、講壇と聴衆席との往来はできないようになっていました。
重度の患者さんは、耳鼻のないかた、視力を失われた方、指のまったくない方々もおられました。
前回出席されていた方々が、今回はおられない、亡くなられてしまったということがしばしばありました。
みな聖書の話を静かに聴いておられました。】
Sinchiku Eki station [Top]
Tainan Kyokai Church [Bottom Left]
Rakuseiin Hospital [Bottom Right]
写真34
写真33の説明 (裏面)
写真35
西港教会 上段中央
台中教会 下段左端
Seiko Kyokai Church [Top Center]
Taichu Kyokai Church [Bottom Left]
写真36
昭和15年12月 佳里教会前
(1940)Kari Kyokai Church
写真37
難読文字(隶朱塗)
手記と、福音主義教会連合発行の新聞(1980年10月1日)の記事とでは文字が異なる。フォントの都合で隶朱塗と表記した。
Note of "Dear megumi.This is very Important thing."
写真38
難読文字(隶朱塗)
福音主義教会連合発行の新聞(1980年10月1日)
(1-October-1980)Newspaper of HukuinsyugiKyokairengo.
写真39
真理大学
Aletheia University in Taiwan
写真40
真理大学葉学長先生
Aletheia University in Taiwan
写真41
取り壊される直前の花蓮港教会
Karenko Kyokai Church.
写真42
取り壊された後の様子
Karenko Kyokai Church.
<付録:年会資料>
東洋宣教会ホーリネス教会第九年会記録の表紙
棟氏の挨拶
大正十五年教勢報告
東洋宣教会ホーリネス教会第一年会記録の表紙
東洋宣教会ホーリネス教会第一年会概略記録
大正七年教勢報告
<付録:絵葉書>
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東台湾花蓮港絵葉書
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上段:東台湾花蓮港絵葉書 原脩次郎氏之像花蓮港花岡山公園 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
下段:東台湾花蓮港絵葉書 花蓮港公会堂 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
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上段:東台湾花蓮港絵葉書 花蓮港停車場 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
中段:東台湾花蓮港絵葉書 花蓮港駅前黒金通り FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
下段:東台湾花蓮港絵葉書 花蓮港駅前黒金通り FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
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上段:東台湾花蓮港絵葉書 台湾花蓮港水道水源地 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
中段:東台湾花蓮港絵葉書 台湾花蓮港水源地より南濱海岸ヲ望ム FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
下段:東台湾花蓮港絵葉書 花蓮港武徳殿 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
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上段:東台湾花蓮港絵葉書 台湾花蓮港庁 庁舎正門 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
中段:東台湾花蓮港絵葉書 台湾花蓮港分屯大隊 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
下段:東台湾花蓮港絵葉書 花蓮港花岡山公園グラウンド FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
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上段:東台湾花蓮港絵葉書 台湾花蓮港庁 庁舎正門 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
下段:東台湾花蓮港絵葉書 台湾花蓮港全景 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
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上段:東台湾花蓮港絵葉書 (縣社)台湾花蓮港神社 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
中段:東台湾花蓮港絵葉書 台湾花蓮港分屯大隊 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
下段:東台湾花蓮港絵葉書 花蓮港停車場 FAMOUSE PLACES AND FINE PROSPECT IN KAREN-KOU,FORMOSA (片山発行)
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東台湾臨海道路
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上段:東台湾臨海道路 蘇澳よりの起点、上段の道路が本道で花蓮港へ三十一里余 下段の道は蘇澳漁港に通ず ARTING POINT SEEN FROM SOO(MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
中段:東台湾臨海道路 蘇澳より南へ二里六丁鳥岸橋より鳥岩角を望む VIEW OF CHOGANKAKU SEEN FROM CHOGAN BRIDGE (MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
下段:東台湾臨海道路 花蓮港より二十里。キヨフより道路中最高所。鳥岩鼻を望む VIEW OF CHOGANBI (MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
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右側:東台湾臨海道路 清水付近の棧道 山上白雲常に去来し脚下は波濤岩の砕く棧道の白き PLANK ROAD NEAR SHIMISU (MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
左側:東台湾臨海道路 大濁水橋 蘇澳より三十九里の地点 VIEW OF DAIDAKUSUI BRIDGE (MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
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上段:東台湾臨海道路 清水付近よりタツキリ方面を望む 棧道の白き柵は鉄筋コンクリート製で危険防止のためであります VIEW OF TAKKIRI DISTRICTS FROM NEAR SHIMIOZU (MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
中段:東台湾臨海道路 石?子の大理石?道 岩に窓を穿ち人間業とは思へぬ風致があります。自動車は東海運輸株式会社のバスです TUNNEL OF MAR?LE AT SEKIKUSHI OF CHOGANKAKU SEEN FROM CHOGAN BRIDGE (MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
下段:東台湾臨海道路 三棧橋 花蓮港より約四里の地点。山紫水明の地一日の行楽地として清遊する人多し VIEW OF SANSEN BRIDGE (MARINE ROAD AT THE EAST FORMOSA.)
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屏東市内名所絵はがき
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上段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)屏東税務署出張所 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
中段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)台湾製糖株式会社屏東工場 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
下段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)屏東駅前通り 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
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上段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)屏東公園の一部 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
中段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)屏東市役所 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
下段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)屏東名所蕃屋 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
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上段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)屏東郡役所 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
中段:屏東市内名所絵はがき (台湾屏東)阿緱神社 昭和十三年十二月十二日地帯模 第300号高雄要塞司令部許可済
下段:屏東市内名所絵はがき (台湾)阿緱神社(屏東名所)
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貿易港として名高き高雄名勝集
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上段:貿易港として名高き高雄名勝集 THE PIER OF TAKAO PORT, TAKAO. (高雄名勝)高雄港岸壁
下段:貿易港として名高き高雄名勝集 WELL-REGULARED STREET VIEW OF HORIECHO AND ENTEICHO, TAKAO. (高雄名勝)街区美しき堀江町及塩埕町の遠望
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上段:貿易港として名高き高雄名勝集 SACRED SEEN OF THE TAKAO SHRINE, TAKAO. (高雄名勝)森厳なる高雄神社
中段:貿易港として名高き高雄名勝集 THE TAKAO PREFECTURAL OFFICE, TAKAO. (高雄名勝)高雄州庁の美観
下段:貿易港として名高き高雄名勝集 THE TAKAO GIRLS' HIGH SCHOOL, TAKAO. (高雄名勝)州立高雄高等女学校
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上段:貿易港として名高き高雄名勝集 THE TAKAO LIGHT HOUSE, TAKAO. (高雄名勝)紅白互光、燈光二十海里半南溟の闇を照す高雄燈台
中段:貿易港として名高き高雄名勝集 THE PLAY-GROUND OF THE 2ND TAKAO PRIMARY SCOOL, TAKAO. (高雄名勝)高雄第二小学校々庭
下段:貿易港として名高き高雄名勝集 THE VIEW TAKEN AROUND THE 1ST TAKAO PRIMARY SCHOOL, TAKAO. (高雄名勝)高雄第一小学校々舎と其付近の風光
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その他の絵葉書
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上段:草山貴賓館
下段右:新店碧凛
下段左:第五回油絵十人展 教会 小田部三平
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上段:淡水海水浴場
中段:台湾風景 がらんび 矢崎千代二氏筆
Garanbi;The southern-most extremity Japan.
下段:台湾風景 阿里山 矢崎千代二氏筆
The centre of National park.
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阿里山の風光
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上段:(阿里山の風光)阿里山ノ雲海
中段:(阿里山の風光)阿里山ヨリ見タル新高山連峯
下段:タータカより見たる冬の新高連峯
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上段:阿里山御神木(ペニヒ)樹齢約三千年 目通り周囲六十四尺
下段:新高主山馬背の險より南山を隔て々高雄州の関山を望む
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大連の盛観
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上段:大連の盛観 遊歩の楽園 四季とりどりの花に映え池水うらぐ緑の楽園中央公園は、年の近代美と自然の調和を誇る理想的公園で休日毎に市民散策のオアシスとなつてゐる。 ■大連■
(昭和十一年六月廿九日・旅順要塞司令部許可済) CENTRAL PARK IN EARLY SPRING,DAIREN 初春の中央公園
下段:大連の盛観 日満を繋ぐ 東洋一の大設備を誇る大連港は、躍進満州国の産業資源の集散地として、日満連絡定期船の発着に賑わう所である。 ■大連■
(旅順要塞司令部許可済) AN INCOMMING LINER,DAIREN 日満連絡定期船の入港
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上段:大連の盛観 麗しの緑園 市街中央の大広場は、大連が誇る麗はしい緑の園である。周囲を回る大建築、街路樹が美しい趣むきを添へ、市民のオアシスとなってゐる。 ■大連■
(旅順要塞司令部許可済) BEAUTIFUL CENTRAL SQUARE,DAIREN 中央広場の美観
中段:大連の盛観 繁栄を誇る 街路整然たる大連屈指の繁華街常磐橋通りには、大ビルデイングが櫛比し連鎖店が明朗な近代美を加えてゐる。 ■大連■
(昭和十二年十二月六日・旅順要塞司令部許可済) TOKIWA-BASHI-DORI STREET, DAIREN 常磐橋通りの盛観
下段:大連の盛観 陽光に映ゆ 大山通りと露西亜街を繋ぐ日本橋は、近代ルネサンス式の石造欄干とブロンズの街燈も美しく市街に美観を添えてゐる。 ■大連■
(昭和十二年十二月六日・旅順要塞司令部許可済) NIPPON-BASHI BRIDGE,DAIREN 日本橋の明色
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上段:大連の盛観 神威厳そか 天照皇大神、大國主命、靖國神を合祀し、鉄筋コンクリートの古雅壮麗な社殿の神厳は自ら人の襟を正さしむるものがある。 ■大連■
(昭和十一年六月廿九日・旅順要塞司令部許可済) DAIREN SHRINE, DAIREN 大連神社の聖観
中段:大連の盛観 電波は踊る 無線の寵児JQAK大連放送局の颯爽たる外観。港都大連の空高く明快な電波によせて文化の発展につとめてゐる。 ■大連■
(昭和十一年六月十四日・旅順要塞司令部許可済) DAIREN RADIO BROADCASTING STATION, DAIREN 大連放送局の麗容
下段:大連の盛観 驛頭爽やか 大連の玄関口たる大連駅は昭和十二年の建設で二階は乗車口、階下は下車口となり、その壮麗な建築美は人の眼を驚かせてゐる。 ■大連■
(昭和十二年九月十日・旅順要塞司令部許可済) DAIREN STATION, DAIREN 大連驛の壮観
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編集後記
ここに書かれている内容は、私が幼いころから、祖父のもとに帰省した時に、一日に一度は聞く、聞きなれた言葉です。
有史以来、数々の戦争がありました。しかし、歴史認識と呼ばれ話題となるのは、特定の戦争の、特殊な一面でしかありません。
激しく動く世界の歴史の中に翻弄された島、「目玉の青いもの」もいる、フォルモサと呼ばれる島、
その中にあった平和を、「美しい島フオルモサ(台湾)のもう一つの歴史」として、祖父の没後10年を前に、プロテスタント宣教150年を記念して、手記をまとめ書き表しました。
戦争はありました。弾圧もありました。しかし、
「平和は、戦争によっても、弾圧によっても、奪い取ることができないほど高貴なものである」ということ。
このことを見ていただけたら幸いです。 谷口 和(bakuchan.com)
EDITOR'S NOTE
Thank you for your kindness to read "Another History of Ilha Formosa(Taiwan)".
These words are familliar with me,because I hear many times from my
grand-father.
Since the dawn of history, there were many wars.
But some specific wars are discussed.
Taiwan is "Ilha Formosa" with blue-eyes people.
Now Wars are.
Now Oppression are.
But Peace is too Noble to rob by Wars or Oppressions.
ARIGATO GOZAIMASU. Taniguchi Kanoo ( mail@bakuchan.com )
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