日本統治下における台湾キリスト教伝道

カイザルのものはカイザルに、神のものは神に

美しい島フオルモサ(台湾)のもうひとつの歴史
昭和11年11月22日 洗礼記念
手記 - 恵さんへ大変貴重な資料です 父より - から
Another History of Ilha Formosa.

     4.戦後

<弾圧に終止符はうたれた>

 父の願いは再び伝道者として伝道の一線に復帰することであった。牧師資格を奪われて就職した時も、また軍隊に於いて生活する時にも「再び牧師として講壇に立つことが許された時に、後ろ指をさされることのないように、生活を乱さないように心がけた。」と語っていた。

 昭和21年6月26日。「文部省より教師職回復について一任」を受けていた日本基督教団より「辞令」が送付され、日本基督教団の牧師としての資格を回復した(写真 30)。こうして父の弾圧の歴史は終わった。

 昭和22年10月30日 山梨県富士吉田市の現富士吉田教会に着任。教会の玄関の戸は戦時中の弾圧によって貼られた「封印」がそのまま残されていた。11月2日。封印を切って 戦後第一回の礼拝がなされた。

<交流は絶えることなく>

 戦後も高端荘先生、ポタル先生、隶朱塗兄、その他台湾伝道時代の信者の方々との交流は続いた。

 昭和27年9月。 地域の人々に「キリスト教の精神に基づく保育をとおして伝道したい」との願いのもとに恵泉愛児園を開設した。

 来訪されたポタル先生の黒い長いヒゲを見て、「あっ、黒いヒゲのサンタクロースがいる」と園児が驚いていた。隶朱塗兄は息子さんが献身して伝道者となられた。この大阪をも訪れた。呉天賜先生も10数年前、東成教会で礼拝説教をなされた。

 ポタル先生の息子さん、呉先生とも親しい交わりが始まり、加えて台湾長老教会の牧師先生と交わりの輪が広がった。
 花蓮港聖教会の会堂で、子供の頃遊んだ経験を持ち、林異雷先生の神学校の生徒であった牧師先生ご夫妻とも親しくなった。
 さらに医師であり牧師でもあられる台湾出身の先生ご夫妻とも親しくなった。私は戦後に生まれ、両親の台湾伝道の時代を全く知らないが、このような者にも温かいお交わりをしていただき感謝である。

 2001年2月27日 台北の教会で夫の博士号授与式が行われ、私は初めて台湾に行った。両親の愛した台湾の地に立つことはとても意義深いことであった。
 木々も、花も美しい熱帯の色であり、一つ一つをしっかり目に焼きつけようと思った。梅の花が咲き、瓦葺の木造家屋は日本の統治時代を想像できるしっかりした建築物であった。
 私はこの時、父の台湾伝道時代の記念写真のコピーを持参した。

<傷跡はなお深く>

 授与式は大変友好的であった。式の後、お祝いの昼食会が開かれ、中華料理をいただいた。円形テーブルで私の隣に座られたのは神学博士号を授与された牧師先生の夫人であった。現在、かつての蕃社で伝道されている。日本語で次のように話しかけて下さった。
 「父は私が3歳の時、日本人に兵隊にとられ、そのまま帰って来ませんでした。家は日本人に焼かれ、壊されました。仕事もなく、道具もなく、自分達の手で木を倒し、荒れ地を耕し、とても苦労しました。」
 穏やかな、温かい表情で、やさしい声の方だった。そして両手の平を見せて下さった。今もその手を忘れることができない。年齢より5倍は老けて見える手であった。それが全てを物語っていると思った。

 私の両親はキリスト教の伝道者として、誰をも分けへだてせず、悔いの残らない生活をしてきた。弾圧の中でも救いの手を差し伸べて下さった軍関係者、警察署長、元警視、その他多くの方々がいた反面、M刑務課長が、内地にも見られないような家財没収、教会からの強制退去、就職の妨害、を行ったことを思うとき、この牧師夫人の言うことを無視することはできなかった。

 同じ日本人に対してさえあのようにしたのだから、植民地の人々にはもっと厳しかったであろうと思った。私は台湾人を苦しめた日本人の一人として「大変なお苦しみを負わせて申し訳ありませんでした。」と謝罪した。
 夫人は優しく「これからは文通しましょう」と 美しい漢字で住所、氏名を書いて下さった。私も同様にした。クリスマスカードを送ったが返事は届かなかった。夫である牧師先生の目は怒りに満ち、無言で、厳しい表情を崩すことはなかった。これもまた現実である。植民地政策の傷跡もしっかり残っていた。

<マッカイ博士の紀念資料館へ>

 昼食会の後、セン先生ご夫妻は 台北県淡水にあるマッカイ博士を創設者とする真理大学へ案内して下さった。先生のお子様がこの有名校マッカイ高校の卒業生であった。
 一週間後にマッカイ博士のお孫さんが来校されるため、暖房の準備などで多忙であられたが、マッカイ博士の書斎、さらには寝室までも見せてくださった。父が洗礼を授けている写真をお見せしたところ、
 葉学長先生が「台湾には戦前、戦中の写真がほとんどありません。これをいただいていいですか」と大変興味を示された。

 先生はマッカイ紀念資料館の鍵をわざわざ開けて下さり、中を案内して下さった。
 帰国後 私は父の写真のコピーと昭和13年当時の花蓮港の絵葉書(本物)2枚をお送りした。
 ここは、かつて父から聞かされていた「チュアン伝道師が淡水の神学校で宣教師から教育を受け・・・」という、まさにその場所であった(写真 39)。マッカイ博士ご夫妻のお墓も訪れることができ、主のお導きに感謝でいっぱいであった。

<日本基督教団の中で>

 昭和21年6月26日の辞令により日本基督教団の正教師に復職した父は東海教区常置委員を2年、山梨分区長を6期12年務めた。ホーリネスの群れ中央委員会の委員として後輩の育成を心がけた。 甲府刑務所の教誨師として24年間奉仕した。父の戦後の伝道は苦労の多いものであったが、多くの人々からの励ましや喜びも与えていただいた。しかし、穏やかな終わりとはならなかった。娘である私が、父と同じように時代のうねりに直面し、「キリスト教の教師」となるための激しい戦いに直面してしまったからである。

 私は大学卒業後、献身し、東京聖書学校を卒業した。いよいよ日本基督教団の教師となるべき年を迎えたが、1960年代の大学紛争の嵐の中で日本基督教団は混乱し、卒業した年には教師検定試験そのものが中止となった。私は信徒伝道者の身分で父の教会に赴任した。
 教区の面接試験において教区長は開口一番「あなたはホーリネスの信仰に疑問を持ったことはないのですか。」と尋ねられた。私は驚いてはっきり答えた「ありません。」1970年代ですら、弾圧を受けた者とその子孫はあなどられていた。私は両親の信仰を「恥ずかしい」と思ったことは一度もなかった。

 試験は翌年再開された。ペーパーテストは従来と何ら変化はない。しかし、「信仰告白」に関して「二重の基準」が容認されていた。「イエスをキリストと告白できない者も切り捨てない」のだ。
 この試験を受験することは、私にはできなかった。教職になるための信仰のたたかいが始まった。最も親しかった先輩も「今日から友達ではないから。」と宣言して去っていった。歴史のどこかで有った光景が繰り返されている。いずれの日にか私の戦いを記す日も来るであろう。


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