日本統治下における台湾キリスト教伝道
カイザルのものはカイザルに、神のものは神に
美しい島フオルモサ(台湾)のもうひとつの歴史
手記 - 恵さんへ大変貴重な資料です 父より - から
Another History of Ilha Formosa.
注釈:『ホーリネスバンドの軌跡』に収録されている父による記事「弾圧下の台湾の状況」より、戦後の台湾の様子を知ることができる。以下に引用する。
[昭和20年9月1日召集解除、2日帰宅した。
同年12月某日、花蓮港長老教会呉天賜牧師が来訪。「高端荘先生がお世話になりました。ご恩返しを私がいたします。県知事と警察署長に面談いたし、教会再開の許可を受けましょう。」という呉牧師の好意を感謝し、案内され面接許可を得たことである。
東京からの情報は入らなかった。一同感謝に溢れクリスマス祝会を守り、伝道再開の決意を新たにした。
昭和21年正月、民情のよい台湾からの日本人引揚は数年先と伝えられていたが、中旬から急変、三月頃との噂が流れ、人々は動揺した。1月末、県総務部より日僑管理委員会の設置、民間人7名が選任されたという通達があり、私もその一人に加えられていた。
教会を引揚事務所として借用の申し込みがあり、2月1日から日僑管理委員会事務所として総務部長の指揮の下に、十数名の職員によって引揚者名簿作成作業が開始され、様式変更が幾度かあり、一人に7通の書類作成は困難であったが、遂に4月18日、約80日の労苦の結果、花蓮県内日本人全員の名簿作成作業を完了、各自別れを惜しみつつ事務所は解散された。4月19日、収容所に入所。20日収容所より許されて外出し、長老教会を訪れた。]
注釈:この時のことを手記では次のように書いている。
昭和21年2月。戸塚林平兄のお子さんが県庁に勤めており、その方を通して総務課より「引き揚げ者名簿作成のために礼拝堂を借して欲しい」との要請があり、受諾いたし、二月より十数名の職員が毎日集まり、作業が開始された。幾度か変更があったとのこと。一人7通の書類の作成は3月19日完了し、花蓮港聖教会に於ける全ての働きが完了した。
高端荘先生は「これからは私達が先生をお守りしますから台湾に残ってくれませんか」と言って下さった。「故郷に両親もおり、敗戦の苦しみを共にしたいので帰ります。」とお答えすると、「何かお手伝いすることはありませんか」と神学校を卒業したばかりの呉天賜先生を引越しのお手伝いにと遣わして下さった。荷物の整理が遅れ、漸く20日に指定の箇所に届けましたが多忙なことでありました。
4月21日、引き揚げ船乗船の前日、台湾長老教会(花蓮港教会)を訪問しました。数名の信者が「小池先生、いろいろありがとうございました。チュアンが昨日死にました。これから私達はお葬式に行きます。」「お年は幾つでしたか。」「72歳です。」お別れの言葉を聞きながら「皆様によろしく」とのべて別れました。
4月21日、700トンの海防艦がアメリカの故障した14000トンのリバティ艦を曳航して一週間がかりで鹿児島に入港しました。日本の海軍に於いても700トンの海防艦が14000トンのリバティ艦曳航は初めてだと話しておりました。
(<引き揚げ:回想>)
注釈:一人7通の書類の作成は3月19日完了し、花蓮港聖教会に於ける全ての働きが完了したと手記にはあるが、姉の記憶によれば4月である。 4月21日、700トンの海防艦と手記にはあるが、姉の記憶によれば750トンである。