日本統治下における台湾キリスト教伝道

カイザルのものはカイザルに、神のものは神に

美しい島フオルモサ(台湾)のもうひとつの歴史
昭和11年11月22日 洗礼記念
手記 - 恵さんへ大変貴重な資料です 父より - から
Another History of Ilha Formosa.

     3. 戦争・弾圧

<弾圧下における台湾>

 1942年(昭和17年)6月26日内地では、日本基督教団 第6部日本聖教会、第9部きよめ教会は治安維持法違反(神宮に対する不敬、天皇に対する不敬、国体変革を企図せる罪)という罪状で一斉検挙を受けた。130名以上の教職が検挙され、聖教会では5名の方が殉教された。 (昭和17年 年会 写真 27

 1943年(昭和18年)4月1日、教団部制を廃止。4月7日、ホーリネス系全教会に「宗教結社禁止令」が伝達された。
 なお昭和20年10月13日「治安維持法」の廃止により、起訴された教職等は免訴となる。
 戦後、実際に内地で弾圧を受けられたご家族のお証しを聞いた。昨日まで友人であった同じキリスト教徒、牧師たちが、ホーリネス教会の牧師と同じように弾圧されることを恐れて、一切の交わりを断ったことを聞いた。殉教された高名な牧師先生のお葬式にさえ、家族以外の者はだれも出席しなかったそうである。

 1942年(昭和17年)6月26日弾圧。当時の様子は、『目で見るホーリネス・バンド』(ホーリネスバンドの軌跡刊行委員会)に薄々講義所の写真などとともに収録されている。 また『ホーリネス・バンドの軌跡』(ホーリネス・バンド昭和キリスト教弾圧史刊行会)に諸先生方とともに小池章三牧師の証言も「弾圧下における台湾の状況」と題して掲載されているが、手記にはあまり記述がない。

弾圧については、
 1943年(昭和18年)4月7日、台中方面の家庭集会に出かけていたが、「早く帰れ」という心の声に従って夜10時に帰宅した。
 「ただいま」と言って上着を脱いだとたん、玄関の戸が開き、7人程の特高警察が入ってきた。なべ、かま、米びつ、衣類以外の物には全て封印をしていった。
 4月8日。早朝、大きなトラックがやって来て、教会内の封印された物を全て持ち去った。時計、提灯、太鼓、書類、書籍、手紙、机、イス、座布団、講壇。教会の中に何も残らなかった。「夕方7時に、花蓮港警察に出頭するように」と言い渡された。父は二度と帰宅できないことを覚悟し、新しい肌着に着替え警察に出頭した。
   1.信仰の放棄・・・これは拒否
   2.牧師職の剥奪
   3.宣教の禁止、信徒との交流禁止
   4.聖書の提出・・・すでに押収されているが拒否。
を申し渡された。

 当時はまだ36歳の若い教師であったため、帰宅を許された。台湾部長であった古清水万太郎先生のみが拘留されたのである。
 基督教長老教会花蓮港教会の高端荘牧師は「何かお手伝いすることはありませんか」とかけつけて下さった。

 昭和16年に教会の土地142坪2.5合を県庁より払い下げを受け、新会堂建築に向けて歩みだした矢先の弾圧による教会解散、牧師職剥奪、信徒との交流禁止であった。
 この時のことを手記には
【私は弾圧、教会解散の時、「この地の人々にどの様に受け止められたか」、「日頃、けんめいに努めた証しができておったかどうか」の恐れを持ちました。】
  と書いている。

<『ホーリネスバンドの軌跡』からの引用>

前掲書から引用し、当時の様子を描く。

[信徒との交流が断たれ、孤立無援の感であったが、主は慰めの手を延べられた。隣家の大石理蕃課長夫人をはじめ、隣組の各位、花蓮港長老教会高端荘牧師、役員有志、更に未知の方々の来訪。元警視古藤斉助氏の会社をはじめ アルミ会社、20有余の有力会社、事業所の就職勧誘の来訪を受け、7年3ヶ月の伝道生活の証しが立てられたことと主の憐みを感謝した。]

[6月19日 台湾日々新聞花蓮港支局長加藤精一氏の夫人が来訪され、「役所の廊下で理蕃課長の大石さんが、『私は7年間小池さんの話を聞いていたが、悪い話は1度もなかった。あなたは聞いたことがあるのか』とM刑務課長に抗議されたことが裏目となり、“小池を苦しめてやれ”と立腹されたMさんが、各会社を廻り、小池は反国家的思想の持ち主で採用するとあなたの会社に迷惑がかかります、と妨害していますから、市内での就職は困難と思います。」というご主人からの言葉を伝えられた。]

[翌20日M課長に面談を求めて、「ご存知のように私共には貯えがありません。花蓮港で再起したいと思いましたが就職ができませんので台南へ行こうと思います。台南におります友人小林喜美雄氏の紹介により、南日本製塩会社に社長の好意により採用が決定しております」と申し出た。要監視人である私の異動を好まないM課長は花蓮市警察熊谷署長に就職の相談をするように指示、熊谷署長は直ちに、同盟通信花蓮港支局長を訪ねなさいと指示され、高木局長に面接した。
 帰宅して間もなく熊谷署長より、花蓮港食糧管理組合を訪ねるように、との連絡を受け、直ちに出向。専務理事梅津三郎氏に面接した。
 初対面であったが、梅津専務理事は過年、運輸会社朝日組、古賀朝一郎氏夫人(教会員)の納棺式に列席、更に小野うら姉(教会員)よりの伝聞により、すべてを熟知されており、好意をもって空席の庶務主任として採用された。県内の全食糧の配給業務を行い、理事長高橋四与大六氏(陸軍主計中尉)、専務理事梅津氏(陸軍伍長)、主事田村武雄氏(陸軍軍曹)3氏は、刑事の来訪に際し、常に擁護下されたことを後日伝聞し感謝に溢れた。]

[6月20日、就職も決定し、自分の語った福音の証人としての覚悟も新たに歩みが開始されたが、一週間後、晴天の霹靂、意外な展開に呆然となった。M課長の通達により、強制的に教会建物の明け渡し、指定家屋への転居、監視下におかれ、教会建物は刑務課分室として昭和20年10月まで使用された。このような扱いは花蓮港教会だけであった。]

 引用終わり。 (<弾圧の中でも差しのべられた手:回想>) 

<とある篤信の方:手記>

 玉里駅より台東駅の中間に「大庄」という小さな駅がありました。小学校の先生ご夫妻が台北の師範学校を卒業された篤信の方でした。
 「信仰を放棄するなら玉里小学校の校長にしてやるから」と誘われましたが、断り続けました。
 戦後、玉里小学校の校長になり、日本に引き揚げました。埼玉県の学校へご夫妻で就職。子供さん方も成長してご両親に倣い、信仰生活を励み、うるわしい家族でありました。

<戦時中のこと:手記>

 1944年(昭和19年)7月25日、召集令状が来る。
 7月30日、第十方面軍66師団1789加藤部隊、工兵隊に入隊しました。「第二国民兵」でありました。(写真 25

 台東市の小学校が第一宿舎。一ヶ月経過の花蓮市外地南地区に移動。昭和20年2月18日の晩移動するまで工兵独特の訓練が続きました。
 台湾に米軍が上陸して来た時に、ヒットラーの戦術と言われるフトン爆雷を背に付け、敵の戦車の下にもぐりこんで自爆する戦車攻撃の訓練をしておりました。この訓練中、地に伏せるとき、腰に付けておる「弾嚢」を払いそこね、肋骨挫傷。35日の入院となりました。 (<お見舞いの思い出:回想>

 入院中に、三少隊第5分隊に配属されました。
移動の晩、五分隊の私は、小さな声で「小池、小池」と呼び出されました。アミ族蕃人(アミ族の蕃人は平地に住んでおり、内地人婦人と結婚しておる者もありました。私は分かりませんが私が路傍伝道などしており、彼の方で知っておったのでしょう。)「班長が殴ると云っておるから気をつけろ」と親切な言葉を残して暗の中に消えました。

 ・・・この時、同年兵の一人がマラリヤの黒水病になり花蓮港病院に入院。何名かのO型の兵士が輸血のため、山から病院に通い生命が助かり、退院帰隊いたし舎内に在って軽い仕事をしましたが血液型が変わったと話しておりましたが、輸血は有難い事である事をまざまざと知ることができました。

 12月31日。部隊の遺言、遺髪の整理に副官(中尉)と佐伯伍長に伴われ小学校へ一泊。翌朝、米艦からグラマン機の襲撃をうけました。晩に「家族に会ってこい」と返してくださいました。遺言、遺髪の整理をした時でありました。

 美都子さん(次女)の誕生日(2月18日)、花蓮港の田舎、地南を夜分、教会のそば、上甲商店の前を行軍。昼はグラマンの攻撃があります故、夜分の行軍となり、22里の臨海道路を踏破して宜蘭までの長い長い行軍となりました。 (<疎開の思い出:回想>

 不思議と常に将校のそばにおり、この時夜間病人を連れて宿につきました。ドンチャン騒ぎの兵士。女中さんに「病人を連れておるので静かにしてくれませんか。」と将校が頼みますと、「兵隊さん。あの方々は明日沖縄に飛ぶ方。許してやって下さい。」と言われ、特攻隊の方であることがわかりました。夜中の2時頃 眠りからさめますと静かでありました。沖縄の沖で戦死されたことでありましょう。

<少年特攻隊員:手記>

 何かの用件で高尾の駅長さんのお宅におりました時、聖書学院入学前にお世話になりました御家庭の長男、諏訪太一君が(ホーリネス上諏訪教会の教会学校に出席)「小池さん。明日沖縄に飛びます。」との挨拶をなされました。私は驚いて何と返事をしたか覚えがありません。

 戦後、ホーリネスの群中央委員として沖縄の教会を問安した折、新川広子先生が「軍艦にあたった飛行機は一つもありませんでした。」と語ってくださいました。私はまぶみの丘から「太一君」と叫びました。家内の弟、幸男君も少年特攻隊員であり、鹿児島から「明日、沖縄に飛ぶ」と待機していましたが、8月15日終戦となり無事であったと聞いております。(家内のおじさんは すでに特攻隊員として戦死されておりました。) (写真 25b)。

<玉音放送:手記>

 1789部隊で中央山脈を越えたのは将校と小池と二人だけでありました。他の方々は列車で台北へ入りました。将校に伴われ、三点礁。(1894年に北白川宮能久親王が上陸なされた中央山脈)を越えて台北の軍司令部を訪問。古清水万太郎先生のご家族に面会。台北郊外の部隊に合流した。

 やがて部隊内に新設された情報部に抜擢され、笠少尉、横川准尉、佐伯伍長、奥村兵長、小池一等兵で組織され、「極秘、機密の整理。ラジオの聴取。」

 8月15日、「ポツダム宣言を受諾するに至れり」と悲痛に満ちたお声を拝聴いたしました。

 終戦の年、8月某日1789部隊情報部に入った通達ですが  ピィリッピに於いて捕虜となった米軍兵士の言葉を他山の石として考慮すべきである。マッカーサー将軍はアメリカに於いても古今の名将であって、今は戦に負けてアメリカに引き上げたが、戦機がととのえたならば再びやってきますと語っています。人材は尊いので玉砕してはならない。テニヤン島の兵士の様に 昼は穴にかくれ 夜分は地の利を得て戦うべし。  との通達に戦前とは大きな変化でありました。

 ポツダム宣言のチラシは米機からまかれ、台湾人より届けられており悲しいものでありました。

 昭和20年9月1日 召集解除。2日帰宅した。

<タイヤール族タロコ蕃次郎君の殉教:手記>

 昭和20年9月2日。帰宅した。私は鳳林長老教会、徐牧師宅を訪問しました。顔を合わせた途端、「小池先生、次郎が殺されました。」と大声で叫びました。私は「どうして」と言いながら絶句しました。
 「小池先生、次郎は駐在官に父親の目の前で根棒でなぐり殺されました。」
 と話して下さいました。
 次郎君はチュアン老師と来訪された時 語られた通り殉教者となりました。次郎君の弟は軍夫として召集され南方へ行っていますが、私共が弾圧を受けた頃、蕃社の駐在官M氏に呼び出され、父親の目前で信仰の放棄を迫られました。「殺されても信仰を捨てません」と告白し、「よし、殺してやる。」と根棒でなぐり殺されました。

 蕃社の人々は父親に「Mさんの片手か片足をもらってはどうか」と言ったそうですが、次郎君の父親は「『イエス様は汝の敵を愛せ』と教えておられるから、許してやろう。悲しむことは俺だけでいいよ。Mさんも長い間ここにおられて世話になっておるから、クリスマスにごちそうしてお別れしよう。」と皆をなだめたそうである。この言葉に誰も反対できずそのようになったということを話して下さいました。

 経済担当の駐在官の中には このような仕返しを受けたと聞きました。早く気付き沖縄に逃げた方は助かったと聞いております。

 1952年9月東京神学大学に於いて第二回全国教職研修会に出席しました。研修終了日、証し会があり次郎君の殉教前后を語りました。終わりますと兵庫県から出席した某牧師が立ち上がり、そのMという巡査は私の親類のものですと立証された事も大きな驚きでありました。

<花蓮港聖教会最後の働き>

注釈:『ホーリネスバンドの軌跡』に収録されている父による記事「弾圧下の台湾の状況」より、戦後の台湾の様子を知ることができる。以下に引用する。

[昭和20年9月1日召集解除、2日帰宅した。
 同年12月某日、花蓮港長老教会呉天賜牧師が来訪。「高端荘先生がお世話になりました。ご恩返しを私がいたします。県知事と警察署長に面談いたし、教会再開の許可を受けましょう。」という呉牧師の好意を感謝し、案内され面接許可を得たことである。
 東京からの情報は入らなかった。一同感謝に溢れクリスマス祝会を守り、伝道再開の決意を新たにした。
 昭和21年正月、民情のよい台湾からの日本人引揚は数年先と伝えられていたが、中旬から急変、三月頃との噂が流れ、人々は動揺した。1月末、県総務部より日僑管理委員会の設置、民間人7名が選任されたという通達があり、私もその一人に加えられていた。
 教会を引揚事務所として借用の申し込みがあり、2月1日から日僑管理委員会事務所として総務部長の指揮の下に、十数名の職員によって引揚者名簿作成作業が開始され、様式変更が幾度かあり、一人に7通の書類作成は困難であったが、遂に4月18日、約80日の労苦の結果、花蓮県内日本人全員の名簿作成作業を完了、各自別れを惜しみつつ事務所は解散された。4月19日、収容所に入所。20日収容所より許されて外出し、長老教会を訪れた。]

<日僑管理委員会事務所:手記>

注釈:この時のことを手記では次のように書いている。

   昭和21年2月。戸塚林平兄のお子さんが県庁に勤めており、その方を通して総務課より「引き揚げ者名簿作成のために礼拝堂を借して欲しい」との要請があり、受諾いたし、二月より十数名の職員が毎日集まり、作業が開始された。幾度か変更があったとのこと。一人7通の書類の作成は3月19日完了し、花蓮港聖教会に於ける全ての働きが完了した。

 高端荘先生は「これからは私達が先生をお守りしますから台湾に残ってくれませんか」と言って下さった。「故郷に両親もおり、敗戦の苦しみを共にしたいので帰ります。」とお答えすると、「何かお手伝いすることはありませんか」と神学校を卒業したばかりの呉天賜先生を引越しのお手伝いにと遣わして下さった。荷物の整理が遅れ、漸く20日に指定の箇所に届けましたが多忙なことでありました。

 4月21日、引き揚げ船乗船の前日、台湾長老教会(花蓮港教会)を訪問しました。数名の信者が「小池先生、いろいろありがとうございました。チュアンが昨日死にました。これから私達はお葬式に行きます。」「お年は幾つでしたか。」「72歳です。」お別れの言葉を聞きながら「皆様によろしく」とのべて別れました。

 4月21日、700トンの海防艦がアメリカの故障した14000トンのリバティ艦を曳航して一週間がかりで鹿児島に入港しました。日本の海軍に於いても700トンの海防艦が14000トンのリバティ艦曳航は初めてだと話しておりました。 (<引き揚げ:回想>

注釈:一人7通の書類の作成は3月19日完了し、花蓮港聖教会に於ける全ての働きが完了したと手記にはあるが、姉の記憶によれば4月である。  4月21日、700トンの海防艦と手記にはあるが、姉の記憶によれば750トンである。


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