日本統治下における台湾キリスト教伝道
カイザルのものはカイザルに、神のものは神に
美しい島フオルモサ(台湾)のもうひとつの歴史
手記 - 恵さんへ大変貴重な資料です 父より - から
Another History of Ilha Formosa.
ポタル先生との交わりは1936年(昭和11年)1月から始まりました。先にも話しましたように「南埔講義所」は実質的にはポタル先生がアミ族の人々に伝道なされておりましたが、官庁は花蓮港聖教会の歴代の内地人牧師を責任者とすることで許可を与えておりました。日本語は流暢、官庁との関係はなめらかで、お子さんは公学校ではなく、私どもの長女と同じ小学校(日本人の子弟だけが通う。)に通っておりました。
1936年(昭和11年)。私は台中教会の特別集会の説教中、急性肋膜炎となり、痛みを耐え、責任を果たし台北教会の特別集会で御用(説教)をするために台北教会へ引き返し大沢豊助先生は「牧師は講壇の上で倒れるのが本望だ。御用をしなさい。」と励まされ、御用をすませ翌日帰宅したのが12月4日でありました。
ポタル先生の奥さんのお父さんが「水連眉の蕃社で亡くなられた」という連絡が18日、19日とあり、「内地人がいけば、キリスト教でお葬式が許されますから小池先生、行ってください。」と依頼され、痛みをかかえて出かけました。
寿駅まで乗車1時間。迎えがないので駅から徒歩。橋のない川を靴を脱いで渉り、峠を越えて太平洋を眺めることのできる部落、水連眉蕃社につきました。過ぐる年、この地の公学校に於いて、北村芳枝先生の伝道なされた当時を偲びました。
葬儀を終えてからの一泊も貴重な経験となりました。彼らはアンペラ(黒砂糖の袋)を広げてゴザとして、コワチ(親指ほどの竹に似た植物)をスダレに編んで、四角を引き張り、その上に敷いて休みます・日没はその上で安眠なさるのでしょう。布団は体がほてって休むことは困難でしょうが、慣れない私のために学校から借りてきたのでしょう、「薄い」布団を用意してくださいました。帰りはカゴを用意下され(横向きに腰掛けカゴ)、川の中もそのまま。寿駅まで何キロありましたか。よき思い出でありました。
(<台湾の日常生活:回想>)