日本統治下における台湾キリスト教伝道

カイザルのものはカイザルに、神のものは神に

美しい島フオルモサ(台湾)のもうひとつの歴史
昭和11年11月22日 洗礼記念
手記 - 恵さんへ大変貴重な資料です 父より - から
Another History of Ilha Formosa.

     2. 台湾伝道

<台湾伝道への出発:手記>

 12月26日、気候の事、教会の事情等々一切知らされておらず、親子3人未熟な伝道者の旅立ち。船に弱い私はその晩から船室で、ボーイさんから借りたお風呂の樋のような小形な吐き樋と仲良し。

 27日朝。 門司港で荷物の積み入れ。

 28日朝。 船上にて。
 吐いている最中、水上警察より甲板の部屋に呼び出し。手に持っているハンカチを眺め、
 「それは何だ」
 「今吐いておりましたのでハンカチを持って来ました。また洗って用います。」
 「どこへ行くか。(昨晩と同じ質問)」
 「花蓮港へ参ります。」
 「何に行くのか。(昨晩と同じ)」
 「キリスト教の伝道に参ります。」
 「帰ってよろしい。」
 お部屋に帰りました。
 この質問は私にとりまして講壇からの言葉(説教)に注意することを決意させました。赴任してからも台北から台中方面の旅行(中央鉄道)に尾行がつくようになりました。

 12月29日の朝、基隆港に上陸しました。
 待合室には台湾部長大沢豊助先生が待っておって下さいました。初対面のあいさつを交わしました。先生は台北の教会へ案内せず、戦後は蒋芥石総統の居住地となりました草山の温泉街の旅館に案内下さり、一泊させて下さいました。長旅の疲れをとるための温かいお心づかいに感謝にあふれました。

 夕食後「小池さん。小原さん(本部の財務部長、淀橋教会牧師)から何か聞きましたか。」
 「いいえ、何もお聞きいたしません。」
 「実は花蓮港教会は財政困難な教会で、役員会より『40円の援助がなければ後任はいらない』と断りの手紙が送られ、小原さんからは『援助がなくてもやっていかれる者を送る』と返事が来ており、あなたは選ばれたのだからしっかりやりなさい。」と励まして下さいました。

 12月31日。朝、台北で見送られ汽車で3時間、蘇澳駅で下車。
 バスの待ち合わせは1時間。バスに乗車の時に紙袋を渡された。しばらく行くとガイドさんが「向こう側にみえる小さな池は蕃人が首を洗った池で、『首洗いの池』といわれています。」と聞かされました。

 左は断崖。台風の時は100m上の道路まで太平洋の海水が届くとのこと(絵ハガキ)。大理石の断崖をえぐり抜き、太平洋側に窓を設けました。現在でも世界の名所云われておるそうですが、バスに乗った人々は乗車の時に渡された紙袋に吐いた物を入れるという困難な道路でありました。

 右側の山手は蕃人の焼畑の跡が残り、「えらい所へ来たものだなあ」と思う内に5時間のバス乗車も夕闇の迫る花蓮港駅前の東海バス停に下車しました(絵ハガキ)。
 合計九時間の長旅は「台北部長宅を訪れ、祈り会をし、日帰りする」ことのできない遠距離でありました。

 出迎えて下された諸兄姉のお姿も見分けのつかない夕闇。九時間の長旅でありました。教会会計の小林喜美雄さん(台湾総督府専売局花蓮港支局長)、に教会に案内されました。すぐに「東京庵」より年越しのそばを届けて下さいました。

 日本人が開拓したといわれる花蓮港街は日本人が4000人居住しており、台湾全島でもこの数の日本人が居住しておるのは花蓮港だけであった。建築も瓦葺(日本人住宅)が多く、旅行者は「日本へ来たような気持ちだ」などと言っておりましたが、教会はトタン葺でありました。

 総督府の人々は「港のない花蓮港。陸の島流し」と言って花蓮港への転任を嫌がっておったとのこと。内地からお嫁さんを迎えても港が無く、本船からサンパ舟に乗り移る時、お嫁さんの足がすくみ、海に落ち溺れて亡くなられたことがあったなどお聞きしました。

 私が着任して10年目に陸地を掘削して築港が完成されました。(これはイタリアに次いで世界で二つ目といわれております。)戦後、ここから引き揚げてきました。

EVANGELICAL MISSION IN TAIWAN

In 26-December , I was not told about Karenko's atmosphere and details of Karenko Kyokai. I and my wife and my daughter got on "Taiyomaru" with my friend pee-bag.
In 27-December , This ship arrived at Monjikou port.
In 28-December Morning, I was asked questions by police.
"What is it?" He said with looking at my handkerchief.
"This is my handkarchief wiht my pee." I answerd.
"Where are you going to?" he asked.(This question was asked yesterday.)
"I go to Karenko." I answered.
"What is your purpose?" he aseked.
"For Evangelical mission." I answered.
"Go your room." he said.

This affair made me decide to take care of my words. And We were tailed.
In 29-December morning we arrived at Kirunkou port.
On this port Mr.Oosawa Toyosuke pastor was waiting of my arrived. And he invited us to Hotel of Kusatsu. After dinner,he told me.
"Mr.Koike Mr.Koike Did you hear someting about Karenko from Mr Obara(pastor of Yodobasi Kyokai church and the tresury of Seikyokai Holiness Church)."
"No. I heard noting." I answered.
"Karenko kyokai church is very poor, and mebers of this church posted a mail to office and refuse any pastor without 40YEN financial aid.
So Mr Obara answer to Karenko church. We send a pastor without financial aid.
You are trusted. Do your best." he said.
In 31-December Morning ,we got on trains from Taipei and got off at Suo Station.It took 3 hours. After one hour waiting ,we got on a bus. CA told us that lake was told Taiwanese aborigine washed heads of human they killed. Traffic was very bad.We were not able to sit down without pee-bag. Marine side of this marine road is a precipice. The other side of this road is falmland of Taiwanese aborigine. 5 hours riding brought us Karenko. It took 9 hours to travel from Taipei to Karenko. Mr. Kobayashi Kimio the tresury of Karenko Seikyokai Holiness Church waited us.

<花蓮港教会の誕生:手記>

 台湾伝道は・1925年、東洋宣教会ホーリネス教会の中田重治監督によって台北巡回伝道をされたことに始まった。

 水蓮眉蕃社には北村芳枝先生が任命され、花蓮港教会に大津先生。途中で事情があり退職されましたが先生の路傍伝道により県庁林務課長 塚本松喜・信子御夫妻が最初の入信者。荒原諸兄磨先生は二代目。山里忠男先生が三代目。山里先生は県庁より142坪2合5尺を借用する。渡嘉敷先生が四代目。私が五代目であります。

 台東県、花蓮県では私がただ一人の日本人牧師でありました。「南埔講義所」(教会という名称は許可されませんでした。)は実質的にはポタル先生がアミ族の人々に伝道されておりました。しかし官庁の扱いは内地人小池牧師が責任者となっておりました。
In Taito Prefecture「台東県」 and in Karen Prefecture「花蓮県」,I was the only one Japanese pastor. I was a pastor of "Karenko SeiKyokai Holiness Churuch "「花蓮港教会」and "Nampo Kogisho Lecture Center"「南埔講義所」officially. But Mr Potal (the Ami people) was pastor of「南埔講義所」and he did evangelical mission for Ami people. 「南埔講義所」could not name "Nampo Kyokai church".

 山里先生は台北市役所の社会課の責任者として是非来て欲しいとの要望により、移られたことでありました。本部から牧師の資格を返上するようにとの通達がありましたが、「牧師の資格があることは職場において相違があります故、お許し願いたい」と懇請いたしました。弾圧のありました時、山里先生の取り計らいにより、古清水万太郎先生の教会では保育園を催すことが許可されたことでありました。(写真 大沢先生と山里先生 10

注釈: 昭和二年4月に開かれた東洋宣教会ホーリネス教会第九年会記録に、棟氏の挨拶が収録されている。 その挨拶では「二年前貴教会中田監督我台湾に巡回して大いに伝道せられ」となっている。 第八年会記録が手元にないため詳細は不明。大正十五年教勢報告に、台北、花蓮港、 二つの教会が記録されている。第七年会記録には台湾の記載はない。 東洋宣教会ホーリネス教会第九年会記録を掲載する ( 第九年会記録の表紙 棟氏の挨拶 大正十五年教勢報告 ) 。 本来これらの資料は弾圧を受けた時に押収され残るはずはなかったが、 偶然にもゴミ箱に捨てられていたのを発見し、今日に至っている。

<花蓮港教会会堂建築:手記>

 三代目の山里忠男先生の時、郊外の河川工事が施行され、総督府の技師、錦織氏の御夫人の特別献金によって、会堂が建築されたと書類が残っておりました。それまではあちこちと民家を借りての集会であった由。

 当時、台北と花蓮港が教会堂がありましたが、嘉義、台南、台中も借家の教会でありました。(写真 外と内  1112131415

<教勢の現状:手記>

 しかし、工事も終り、技師御夫妻が台北へ帰られ、出席者は少なく、山里先生も花蓮港から宜蘭へ去られ、集会も淋しくなった由。私の着任後も伝道会の一人。祈祷会も皆無という時もありました。

 上諏訪ホーリネス教会の「組会」をならい、家庭集会があちこちで催されるように導き、外地のことでありますが交わりを深めることに励みました。 小林会計は一ヶ月分の俸給をささげ、水道をひいて下さいました。

 文局長(日本では文部大臣級)の戸塚林平兄の奥さんは婦人会の折、台湾の漬物、料理を若い奥さん方に教え喜ばれたことでありました。

 花蓮港着任は 12月31日でありました。
 1936年(昭和11年)1月26日の役員会で「この教会は献金でつまずいた教会ですから講壇からは絶対に献金の奨励をしないでください。」と会計さんに言われ、「ハイ、分かりました。」と答えました。心の中には少しの不安もなく、祈る事によって主は与え給うと信じておりましたから全く平穏でありました。
 「私から一つお願いがあります。祈祷会の献金は蓄えておき、経済的に困難な教会へ祈りを込めて送りたいと思いますからお許し下さい。これは私の信仰ですから」と了解を頂きました。

 中田監督は「兄弟達よ、地方へ遣わされた時、祈ることを忘れてはならない」と教えて下さいました。その教えを花蓮港教会の役員会終了後から始めました。

 転勤の多い植民地のこと。重要な役員は次々と異動していきました。塚本兄は私の着任後3月の異動で隣の鳳林郡の郡長として栄転されました。しかし、献金額は増加していきました。「そんなに捧げなくてよい」と皆の献金をおさえておった方が転勤した結果、「自由に献金することができるようになった」とみんなが申されておりました。

 昭和16年。赴任して7年目。山里先生が県庁より借用しました教会の敷地142坪2合5尺を4000円で払い下げを受けましたが、信者の方々に無理に献金を求めることなく実践できました事は誠に感謝のことでありました。

 聖教会全体200余の中で9位の献金額、教勢35位となり主の御名を崇めました。
 花蓮港教会に出席されている日本人の方々は台湾総督府の林務課長、専売局会計課長、総務部長(栄転された時)、警察官、台湾日々新聞花蓮港支局長、医師、教師、駅長、助役 等々 さまざまな方々でありました。

<路傍伝道:手記>

 牧師の交替を町内の人々に知らせ、馴染んでいただくために人通りの多い黒金通り郵便局前の三角形の空地を利用し、親子そろって路傍伝道を始めました。(写真 絵ハガキ 黒金通り 18
 私はタンバリンをたたき、家内は子供を背負いましたが、三人の子どもたちは成長と共に、堤灯持ちをしました。

 東台湾に日本人の牧師は小池だけでありました。霊性の低下を注意して祈祷を怠りませんでした。150キロの鉄道沿線に散在する信者宅を訪問。共に祈りました。中田監督の教えに従い祈祷の生活は続けました。

<現地の人々との交わり:手記>

 教会は本通りから数分奥地の「連雀通り」にあり、三方はコロトンの生垣で囲まれ、その中には檳榔樹(びんろうじゅ)、パパイヤ、バナナが混じり、訪問者の出入口には玉砂利を敷きました。周囲は官庁関係者の宿舎が13軒、台湾人の家が1軒ある静かな環境でありました。

 言葉はあるけれども文字を持たない山地の蕃人達に、駐在官はクセのない日本語を教えました。日本政府の施策による日本語の普及により内地人との対話が楽しそうでありました。

 着任直後から台湾人や高山からの蕃人の野菜売り、平地におるアミ族の女性の野菜売り等は裏口から入りました。やがて信仰の話を希望する者は裏庭の井戸水ではだしの足の泥を洗い流し、下駄をはいて屋内に入りました。(写真 1617
 顔に入れ墨をしておる者、していない者も脚伴を付け、野菜売りに来訪し、内地人との交わりが楽しそうでありました。
 ある時は家内と交代で聖書の話をいたしました。熱心に聞き、青年の中には聖画の紙しばいを借用して帰る者もありました。 (<紙しばいの思い出:回想><夏の花蓮港聖教会:回想>

 中田監督の教えにしたがい、祈祷の生活はつづけました。台東駅からバスで一時間半、太平洋側を奥地に進むと熱帯地の植物が幼いころ生活した北海道礼文島の海岸の植物と同様で驚きました。

<オランダの支配:手記>

 通りがかった蕃人が裸で腰に蕃人用の刀をつけておりました。「ぺこん」と頭を下げましたが 私は大きな声で「こんにちは」と挨拶いたしました。この道路の奥に「成興うおう」という部落があり、小さな港に船が引き上げられており、新潟県出身の松矢新吉さんというお医者さんの話によると英国人の宣教師がこの港から上陸して伝道しておられ「オランダ人」が300年前に支配しておったとのこと。蕃人の中に目玉の青い者が今でもおります。

<アミ族ポタル先生との交わり:手記>

 ポタル先生との交わりは1936年(昭和11年)1月から始まりました。先にも話しましたように「南埔講義所」は実質的にはポタル先生がアミ族の人々に伝道なされておりましたが、官庁は花蓮港聖教会の歴代の内地人牧師を責任者とすることで許可を与えておりました。日本語は流暢、官庁との関係はなめらかで、お子さんは公学校ではなく、私どもの長女と同じ小学校(日本人の子弟だけが通う。)に通っておりました。

 1936年(昭和11年)。私は台中教会の特別集会の説教中、急性肋膜炎となり、痛みを耐え、責任を果たし台北教会の特別集会で御用(説教)をするために台北教会へ引き返し大沢豊助先生は「牧師は講壇の上で倒れるのが本望だ。御用をしなさい。」と励まされ、御用をすませ翌日帰宅したのが12月4日でありました。

 ポタル先生の奥さんのお父さんが「水連眉の蕃社で亡くなられた」という連絡が18日、19日とあり、「内地人がいけば、キリスト教でお葬式が許されますから小池先生、行ってください。」と依頼され、痛みをかかえて出かけました。

 寿駅まで乗車1時間。迎えがないので駅から徒歩。橋のない川を靴を脱いで渉り、峠を越えて太平洋を眺めることのできる部落、水連眉蕃社につきました。過ぐる年、この地の公学校に於いて、北村芳枝先生の伝道なされた当時を偲びました。

 葬儀を終えてからの一泊も貴重な経験となりました。彼らはアンペラ(黒砂糖の袋)を広げてゴザとして、コワチ(親指ほどの竹に似た植物)をスダレに編んで、四角を引き張り、その上に敷いて休みます・日没はその上で安眠なさるのでしょう。布団は体がほてって休むことは困難でしょうが、慣れない私のために学校から借りてきたのでしょう、「薄い」布団を用意してくださいました。帰りはカゴを用意下され(横向きに腰掛けカゴ)、川の中もそのまま。寿駅まで何キロありましたか。よき思い出でありました。 (<台湾の日常生活:回想>

<小原十三司先生を迎えて:手記>

 1937年(昭和12年)2月。東京の本部より小原十三司先生が9月に台湾巡回使として東台湾に来られることになったとの連絡を受けた。小原先生は花蓮港教会で写真で一緒に写られたアミ族の首長(カツァー)と同じ50歳でありました。本部より連絡を受けて1ヶ月、連夜の祈祷会が行われ、先生をお待ちしたことでありました。

 当時は飛行機はなく、基陸に上陸した晩、台北教会の信者、郊外の金爪石鉱山の社宅に於いて集会がもたれた。翌日は花蓮港教会 小林喜美雄兄の勤務される台湾総督府専売局花蓮港支局の講堂に於いて1時間の精神講話が行われ、12時発、台東行き終列車に乗車。

 板張りの腰掛けに座って9時間を要し、翌朝台東駅に到着した。バス利用で1時間半の道のりを、当日はタクシーを利用し、台東県新港街の松矢新吉兄の診療所(ご婦人は助産婦)で家庭集会を行った。ご夫妻は地域の人々の信望の厚い方であった。

 松矢兄宅の家庭集会をすませ、引き返して台東駅より玉里駅に下車した。花蓮港駅と台東駅の中間に玉里駅がある。
 この「中間の町」に信者が与えられるように 駅の待合室の腰掛けの下に 蚊取線香をいぶし(マラリヤを防ぐため)、祈祷を続けたことがある。警察官が時折巡回したことでありました。

 小原先生をお迎えしました時は玉里駅長 麓佃氏の御厚意により鉄道倶楽部に於いて、夜10時より集会が開始されました。麓佃氏の奥様は熱心な信者であり、親類の薬剤師の家庭も信仰に熱心な方々でありました。

 小原先生は
 「小池さん。今まで多くの集会で御用をしてきたが、夜中の10時から集会が始まって12時に終わるということは初めてだよ。」
 と言われ、
 「ハイ、よろしくお願いいたします。」
 とお返事いたしました。

 小さな特別集会でありましたが聖霊のお働きによって先生のお話しは祝され、10年近く喘息を患っていた駐在官の奥さん、吉川百枝さんは 先生の按手により、たちまちいやされ、栄光を拝したことでありました。

 窓に目張りをし、紙帳を吊るしてその中で生活するのでなくては、わずかな空気の流れにも耐えられない程の喘息が信仰によっていやされた喜びはご主人をはじめ教会の方々にも同様でありました。
 「聖霊のお働きを見たので、新しい聖歌を作ってほしい」と鈴子先生にお葉書を送られました。「新たなる聖業」は小原鈴子先生の作詞、高野忠博先生の作曲で誕生いたしました。(写真 19
 花蓮港教会の礼拝の講壇から「教勢の貧困は信仰の貧困によるものであった。援助を送らなかったが、よくやった。」とおほめの言葉をいただきました。

 小原先生巡回伝道のこの時、「薄々(ポッポコ)講義所」の柿の木の下のフロ桶に於いて隶朱塗(難読文字 3738)兄が受洗いたしました。

<林異雷牧師:手記>

 林異雷牧師は花蓮港教会の出身者で日本人の婦人と結婚し、日本の神学校で学ばれました。(写真 28
 日本で弾圧が起こった時、先生は用心深く1ヶ月かけて台湾に戻り、このことを知らせてくださいました。戦後しばらく山梨県でも伝道されました。のちに1963年〜1967年に「東台聖経学校」の校長となられました。先生の教え子にあたる牧師先生ご夫妻と、今日親交が与えられており、主の深い摂理を思います。 (<林異雷牧師先生との思い出:回想>

<松矢新吉御夫妻:手記>

 台東県新港街の公医、松矢新吉兄と奥様は地域の人々にも信望の厚い方々でありました。
 松矢ご夫妻とお交わりが始まって(月一回の巡回)、「きよめの恵」について教えて欲しいと求められ、三ヶ月目に明確な確信が得られました。

 花蓮港から150キロの道のり。9時間列車と1時間半のバス乗車。お交わりが始まって3年3ヶ月目の訪問の折、
 「小池先生。三年間先生を見てきましたが先生は廉潔な方ですね。もし先生個人でお入り用の場合は私の財の許す限り協力させていただきますから遠慮なくお話しください。」
 と親切な言葉をいただき感謝いたしました。
 中田監督は「地方に遣わされた時、金銭の問題、女性の問題に気をつけなさい。」と言われたことを思い起こしました。

 この時、内地の母は目の手術をひかえており「50円を送って欲しい」との連絡を受けていました。松矢さんの親切なお言葉に、のどもとまで「50円を貸して下さい」という言葉が出かかったのですが、言わずに帰宅しました。帰宅してから「先生ご自身の必要のためにお使い下さい。」とくださった袋を開けてみると、50円入っており、さっそく内地に送りました。本当に感謝でありました。

 松矢兄ご夫妻は引き揚げ後、新潟県にて御苦労なされたが、主の絶大な恵みによって川崎駅の裏通りに住宅を移築され、チャーチオブゴッドのシェルホン総理のよき協力者となり、自宅を御幸キリスト教会として献堂された。特別集会の講師として招かれた折、松矢さんご自宅に案内して下さった神学生は「松矢さんは僕たちのお手本です」と語られた。(写真 20

雑誌「ホーリネス」ホーリネスの群、に松矢夫人の証詞、チャーチ・オブ・ゴッド御幸キリスト教会が献堂されたいきさつが書かれている。

 この家は台湾から新潟へ引き揚げ開拓地に入植した時、雪に潰されない為にこのような柱を用いて建てましたが、此方に移築した時そのまま用いました」と太い柱について理由を語られました。・・・(略)・・・将来の見通しが立たない為、五年前に開墾地を売り渡すことになり、一万五千円で契約いたし、今日買受人が現金を持参すると言う日に電報で破約されました。祈っていった私どもの落胆は大きなものでありましたが、翌晩町から帰った人が、此の開拓地は自衛隊の演習地として買い上げが今日の国会で決定したという意外な話を聞かされました。私どもの開墾地は約百万円の保証金が交付され、此家を移築することができました。

<早川二郎先生のお励まし:手記>

 1941年(昭和16年)6月24日。日本基督教団台湾教区創立総会が台北市富士見町教会、上 与二郎先生の教会を会場として開催され、東京の本部より佐波 亘先生が代表として渡台されました。

 花蓮港教会役員、及びポタル牧師と出席しました。終了後、富士見町教会の長老、台北帝国大学教授早川二郎先生から、
 「小池先生、花蓮港の教会は立派ですねえ」
 と初対面の私に話しかけられました。突然のお言葉に驚きながら
 「いいえ、花蓮港の教会は御教会の煉瓦造りのように立派ではなく、トタン輯の貧弱な教会であります」
 とお返事いたしました。
 「建物のことを言うておるのではありません。台湾人も蕃人も来ておるでしょう。」
 「ハイ、来ております。」
 「私はそのことを言うておるのです。台湾伝道と言いながら教会は台湾人も蕃人もきておりません。内地人ばかりです。これでは台湾伝道と言うことはできません。」
 と申されました。このようなお言葉は在台中、一度もおききしたことはありませんでした。

 台北教会の会員の小池ヤス姉が花蓮港教会の礼拝に出席して、「小池先生、母教会より暖かな教会ですねえ」と語っておられましたが、心の温かさがあるようにと心がけておりました。
   私は台湾人、蕃人の方にも平等に接し、合同前は日基、救世軍、組合教会の信者の方々が出席されましたが、教派にこだわらない交わりは楽しくありました。

<戦況の変化:手記>

 戦況は変わり、古清水万太郎副議長からの手紙も「濡れたので乾かしました」と押印があり(「検閲」されたのでありましょう。)配達されるようになりました。

<台湾長老教会花蓮港教会:手記>

 黒金通り(目抜き通り)の台湾長老教会花蓮港教会の高端荘牧師は温容な方であり、親しくお交わりをしていただきました。戦後も文通をしておりました。
 長老教会花蓮港教会に出席していた高砂族の信者の人々は、出席がむずかしくなりました。「お前達はまだ早い」と部落の駐在官から言われておると伝聞しておりました。 (<講壇をお借りして:回想>

<タイヤール族タロコ蕃チュアン伝道師のこと:手記>

 同教会に出席しておりましたチュアン伝道師は 数分離れた静かな連雀通りの聖教会にタイヤール族の中のタロコ蕃、次郎君に案内されて2度来訪しました。
 チュアン伝道師は台湾人と結婚しておりますが、淡水の神学校に於いて宣教師より教えを受け、「夜分は同族の山地に帰り、秘かに警察の目を逃れて伝道を続けておる」と語っておりました。戦後、蕃地のリバイバルはチュアン伝道師の働きによると伝えられております。

 タイヤール族のタロコ蕃の次郎君は言葉も鮮明であり、蕃社では模範青年として駐在官に伴われて、「二回上京した」と語っておりました。
 チュアン老師とは次郎君の通訳で語り合いました。二回来訪されましたが、その集会の献金を江古田の聖書塾、蔦田二雄先生の所へ送金しましたが、戦時下であり、その理由を伝えることができなかったのは残念でありました。

 その時次郎君は「イエス様は僕のような蕃人を救って下さいました。僕は殺されるようなことがあっても 信仰は捨てません」と証しされました。私は同じ人間でありながら、『蕃人のような者』と語られる次郎君の証しを聞きながら、胸の中で涙をおさえました。

蕃人は物々交換で、お金をあまり使わない生活をしておるため貯蓄があり、献金額は少なくなかった。
TAIWAN KARENKO SEIKYOKAI CHURCH

From the Note>> I arrived at Kirun port in 29-December-1935. There was Mr. Oosawa Toyosuke pastor. And he invited us to a hotel. In 31-December-1935 I arrived at Karenko Kyokai Church.
Some one said "Karenko look like Japan because many of house Japanese-style." and some one said "Karenko is isolated island on land because traffic is so bad."
Evangelical mission has been started Mr.Nakada Juji pastor since 1925.
My family caroled at Kuroganedori street. Taiwanese aborigine was tought Japanese from Japanese so we could communicate in Japanese. 300 years ago,Taiwan was under control of Netherland, so somo of them with blue-eyes. Evangeling to Taiwanese aborigine was banned but was acqiescended on the land.


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Another History of Ilha Formosa(Taiwan)

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