日本統治下における台湾キリスト教伝道
カイザルのものはカイザルに、神のものは神に
美しい島フオルモサ(台湾)のもうひとつの歴史
手記 - 恵さんへ大変貴重な資料です 父より - から
Another History of Ilha Formosa.
1933年(昭和8年)5月 健康が回復し、上諏訪ホーリネス教会の斎藤保太郎先生より、高遠町の開拓伝道を命ぜられ、派遣された。中田監督にハガキでお知らせすると、中田監督より「必要な物があるならば何なりと言うてよこしなさい。」とおハガキを頂いた。 (弾圧の時、台湾花蓮港聖教会に於て、書類と一緒に押収されてしまいました。)
聖書学院に入学した当時、おなかがすき、パンを買い求めて同室の先輩、
「矢部君あなたも食べないか」とすすめました。彼は
「小池君、尾崎さん(副舎監)に聞いたか」
「いいえ」
「それなら尾崎さんに聞いて許しを得てから食べなさい」
と教えられ、その部屋を訪れました。
「小池君、僕達は将来信者の献金によって生活するのだから、食べたいからと言ってすぐ買って食べることをせず、祈って待ちましょう。今日は食べてもよろしい。それから地方へ任命された時、説教の準備に行きづまりを感じた時、祈りなさい。祈っても仲々苦しい時があるが、更に祈りなさい。必ず主は示して下さるから。」
とつけ加えて教えられました。
高遠町の開拓は信者がありません。毎朝一時間は声を出して祈りました。祈りが終わって玄関へ出ますと上り台の上に白い紙袋がおいてありました。何を下さったのか、何が入っているのかと開いてみると、ぶっち切りのような白いお菓子(アルヘイ糖)が入っておりました。
一週間続きました。「どうした方かなあ」と思っておりますと、お隣のお豆腐屋さんのお婆さんが、5〜6歳のお孫さん、照子さんを使って届けて下さることが分かり、尾崎副舎監の言葉を思い起し、感謝を捧げました。
名物の「高遠まんじゅう」は尾崎先生の言葉を守り、遂に買い求めることをせず高遠を去りました。(山梨県に赴任してから、高遠を去って40年後、当時入信した武井富佐子さんに「高遠まんじゅうを食べることはなかった」と手紙を書きました時、2000円のまんじゅうが送られてきました。)
お菓子を届けて下さったお婆さんはその年のクリスマスに数名の方々と共に入信。栗田三次牧師より洗礼を受けられました。感謝なことです。松本教会へ移ってからも高遠教会へ自転車で通いました。
1933年(昭和8年) 10月 松本教会の松田先生より、「忙しいから手伝ってくれないか」と招聘されました。
―・教理上に相異が生じ中田監督と分離することになる。
その結果斎藤保太郎先生とお別れすることになり、
「小池君、君はそっちに行くのか。残念だなあ」
と言われました。先生は弾圧の時水戸の拘置所で殉教されました。
1934年(昭和9年) 7月13日 松田正平先生の司式、石川安一先生の仲人により藤森なを江と結婚する。
1935年(昭和10年) 3月 健康が回復し、東京聖書学院に入学。柏木寮に入る。(単身)
米田豊先生が
「大丈夫か」
とお声をかけて下さった。 (6月21日 長女生まれる。)