日本統治下における台湾キリスト教伝道
カイザルのものはカイザルに、神のものは神に
美しい島フオルモサ(台湾)のもうひとつの歴史
手記 - 恵さんへ大変貴重な資料です 父より - から
Another History of Ilha Formosa.
1. 東洋宣教会ホーリネス教会
後に花蓮港聖教会牧師となる父は1907年(明治40年)1月4日、長野県に生まれた。2000年10月2日、65年に渡る伝道の生涯を終えた。信仰の年数は75年にわたり大正、昭和のキリスト教の歴史と深く関わっているので年表の形で足跡をたどってみることにする。
1917年(大正 6年)東洋宣教会ホーリネス教会が組織される。
1918年(大正 7年)ホーリネス教会第一回年会が開かれる。
1924年(大正13年)上諏訪ホーリネス教会に於いて求道生活を始める。
私は1924年(17歳)、7月6日の晩、上諏訪ホーリネス教会の伝道会に「一度キリスト教のお話しを聞いてみたい」と思い、出席いたしました。高橋俊三先生は聖書の上に手を置かれ確信に溢れたお声で「この聖書のお話を信じるか、信じないかその結果を見ることができるでしょう。」と語られました。
心の中で「50年、60年は長いなぁ」と自問自答しながら「信じてみよう」と思った者が求道者に替えられて帰宅いたしました。
伝道会で青年の男女、老人の方々の入信当時の悔い改めのお話しをお聞きしたことは幸いでありました。(写真 1、2)
1925年(大正14年) 2月22日 車田秋次先生が講師として迎えられた集会で「恵みの座」に進み出て悔い改め 4月20日 郊外の六斗川に於て高橋俊三先生より洗礼を受ける。
1926年(昭和2年) 5月24日 御牧硯太郎先生を講師としての特別集会の「恵みの座」において「ヨハネ21章15〜17節の御言葉を通して」召命を受ける。
1932年3月 高橋俊三先生の推薦状をいただき柏木聖書学院に入学する。(上諏訪ホーリネス教会の、戦前最後の献身者となった。)
―リバイバルの末期でありましたが大講堂(カウマンホール)における祈祷。当時2000人収容の木造建築は警視庁下では一つと云われておりました。―
火曜日の晩は、「きよめ」の勉強。先輩が交代して自分の経験を引用して教導下さいました。この学びも最高でありました。
私はこの勉強の時、先輩の指導によって明確に確信を得たことは生涯の宝でありました。―
1932年5月 「きよめの恵」を受ける。
―更に中田監督が授業の時、「兄弟達よやがて地方へ任命されるが祈ることを怠ってはならない。メソジスト教会の赤沢監督は夜分講壇の陰に座り祈祷を続けていく時に、『三尺前に主の臨在を感じた。』と語られたことがありました。兄弟達よ、祈る事を怠ってはならない、祈りなさい」と教えてくださいました。
注釈:当時リバイバルの霊火は燃え続き、消灯後のカウマンホールは静寂の中にも祈祷の呻き声に満ちていた。ホーム(寮)の烈しく燃える祈祷の時間に指導者によってリバイバルの中、本や衣類を「ワラ屑」として焼くことを余儀なくされた。
【「小池君、そのオーバーも焼いてしまえ」と言われ、「これはもったいないから焼かないよ」と実家へ送り返したことでありました。】
この作為的行為を「リバイバルが起った」と報告されていくことに恐れを感じたと手記に書いている。
12月24日 病気のため休学。実家に帰る。 (写真 4)
1933年(昭和8年)5月 健康が回復し、上諏訪ホーリネス教会の斎藤保太郎先生より、高遠町の開拓伝道を命ぜられ、派遣された。中田監督にハガキでお知らせすると、中田監督より「必要な物があるならば何なりと言うてよこしなさい。」とおハガキを頂いた。 (弾圧の時、台湾花蓮港聖教会に於て、書類と一緒に押収されてしまいました。)
聖書学院に入学した当時、おなかがすき、パンを買い求めて同室の先輩、
「矢部君あなたも食べないか」とすすめました。彼は
「小池君、尾崎さん(副舎監)に聞いたか」
「いいえ」
「それなら尾崎さんに聞いて許しを得てから食べなさい」
と教えられ、その部屋を訪れました。
「小池君、僕達は将来信者の献金によって生活するのだから、食べたいからと言ってすぐ買って食べることをせず、祈って待ちましょう。今日は食べてもよろしい。それから地方へ任命された時、説教の準備に行きづまりを感じた時、祈りなさい。祈っても仲々苦しい時があるが、更に祈りなさい。必ず主は示して下さるから。」
とつけ加えて教えられました。
高遠町の開拓は信者がありません。毎朝一時間は声を出して祈りました。祈りが終わって玄関へ出ますと上り台の上に白い紙袋がおいてありました。何を下さったのか、何が入っているのかと開いてみると、ぶっち切りのような白いお菓子(アルヘイ糖)が入っておりました。
一週間続きました。「どうした方かなあ」と思っておりますと、お隣のお豆腐屋さんのお婆さんが、5〜6歳のお孫さん、照子さんを使って届けて下さることが分かり、尾崎副舎監の言葉を思い起し、感謝を捧げました。
名物の「高遠まんじゅう」は尾崎先生の言葉を守り、遂に買い求めることをせず高遠を去りました。(山梨県に赴任してから、高遠を去って40年後、当時入信した武井富佐子さんに「高遠まんじゅうを食べることはなかった」と手紙を書きました時、2000円のまんじゅうが送られてきました。)
お菓子を届けて下さったお婆さんはその年のクリスマスに数名の方々と共に入信。栗田三次牧師より洗礼を受けられました。感謝なことです。松本教会へ移ってからも高遠教会へ自転車で通いました。
1933年(昭和8年) 10月 松本教会の松田先生より、「忙しいから手伝ってくれないか」と招聘されました。
―・教理上に相異が生じ中田監督と分離することになる。
その結果斎藤保太郎先生とお別れすることになり、
「小池君、君はそっちに行くのか。残念だなあ」
と言われました。先生は弾圧の時水戸の拘置所で殉教されました。
1934年(昭和9年) 7月13日 松田正平先生の司式、石川安一先生の仲人により藤森なを江と結婚する。
1935年(昭和10年) 3月 健康が回復し、東京聖書学院に入学。柏木寮に入る。(単身)
米田豊先生が
「大丈夫か」
とお声をかけて下さった。 (6月21日 長女生まれる。)
8月 岡山教会の夏期伝道に派遣される。
自炊しながら毎日家庭訪問、夜分は路傍伝道。旭川の夕凪と云われるむし暑さ。タンバリンを叩いての路傍伝道は物珍しげの会衆であった。「僕も信じたい」と前に進み出た青年であったが、あまりの嬉しさに住所の記述を忘れ残念な事であった。洗濯屋さんの○兄と四十年後、甲府のギデオンの総会に招かれた席上で、全国の会長としてお逢いしたことは大きな喜びでありました。
9月10日 帰京。車田委員長宅に報告に参上する。
車田委員長は報告を聞き終わりますと「中央委員会は兄弟を水戸の在、瓜連教会へ任命しました。明日の礼拝に遅れぬよう新大久保駅から荷物を出し出発しなさい。」との辞令でありました。(単身赴任)(写真 瓜連教会5)
9月11日着任。
瓜連教会は水戸より福島県郡山に通ずる水郡線水戸から五里位でありました。
夜分になりますと一軒おいて隣の飲食店から「落ちぶれて袖に涙がかかると時、人の心の奥ぞ知らるる」と云う当時流行の歌が聞こえてきました。説教の準備に妨げになります故、暗い小道を歩きながら準備をいたしました。
家庭持ちを配慮下されたことでしょう。思いがけない援助金5円と出版部より未納の請求書が同封され、15円の負債のあることを知りました。
「教会が未納金があることは証しにならない」
と単純の思いから、前任者の御夫人に相談せず、出版部に送金、完済できましたことは感謝でありました。
このささやかな思いやりが小原先生のお心の中印刻され花蓮港教会の財政困難な教会に抜擢されたのではないでしょうか。この事は2、3年前に気づいたことであります。
10月―――1か月が経過しました時、本部より
「用事がある故、青山の青年会館に出頭するように」
との通知があり、当日定刻出頭いたしますと、すでに先輩数名が待機しておられ、次々室内に呼び込まれ、最後の一人となりました。
柏木寮の寮長であり中央委員の一人である一宮政吉先生がおられ、席につきますと
「小池さん。花蓮港の教会へ行かれますか」
とお尋ねになりました。
「私共は自分で任地を選ぶ資格はありません。
行けと仰せになれば行きます。」とお返事をいたしますと
「もし行くようになったならば古賀さんと云う家庭を訪問して祈ってあげなさい」と言葉が添えられました。
12月13日 「花蓮港教会に転任を命ず。上京の時には淀橋教会の事務所により旅費を受け取り、12月26日神戸港出港の大洋丸に乗船しなさい。」と一枚のハガキの辞令でありました。 (<本家への挨拶:回想>)
Toyosenkyokai Holiness Kyokai Church was establised in 1917.
Koike Shozo was born in 1907.
He went Kamisuwa Holiness Kyokai Church in 1924.
From the Note >>
Mr.Takahasi Shunzo told in his predict that "You will see the difference
between believing and no-believing in 50 years".
But I think "it's roo long".
He admitted to Kasiwagi Seisyo Gakuin School of Theology(March 1932) and
He had an experience of holiness(May 1932).
He admitted to Tokyo Seisyo Gakuin School of Theology(March 1935)
In 11-September-1935 He was send to Urizura Kyokai Church,
and
this year 13-December ,
he get a postcard from Office of Holiness Church.
From the Note >>
Go Taiwan Karenko Kyokai Church.
Come Yodobashi Kyokai Church and get tickets.
Board Taiyomaru-ship from Kobe port 26-december.